菊陽町手をつなぐ心障者の会「つくしんぼ」 会長 坂田義美  A


258号 2005年3月27日

(36)親としてA

 まず、先月号(2月27日発行)の分で、説明不足の表がありましたので、改めて表のタイトル修正と表を再録したいと思います。
(3)希望施設種別毎の待機者数
(熊本県平成16年度12月末現在)
 上記のように県内には施設に入所したい、又は通所したいという希望者が471名も家庭で待機しているのです。ちなみに県内の特別養護老人ホーム待機者は1万1千800人(平成16年10月調べ)です。

    

 次に施設利用者の年齢構成、在所期間を大阪府の例でみてみたいと思います。府内の25施設、総定員1880人を抽出し、調査を実施されたものです。
  利用者の年齢別の構成割合は図1のとおりです。40歳代が一番多く22.9%ですが、50歳代も22.7%おり、60歳代も8.0%います。
 この加齢者は、年を取ってから入所した訳ではないそうです。ずっと入所施設にいる人が多いのです。在所期間20年以上が44.7%を占めています。10年以上だと6割に達します。(図2参照)
 利用者の加齢は、即ち保護者の加齢となっています。60歳代が27.3%、70歳以上が37.0%を占めています。保護者の若返り、世代交代は殆どされていません。
  次回は入所理由の調査結果をみてみたいと思います。


262号 2005年4月24日

(37)親としてB

 施設利用者の在所(入所)期間がいかに長いのか、その中でも20年以上の人が44.7%もいる、そして10年以上20年以内が15.2%です。ということは10年以上の入所者が約60%との実態調査の結果でした。
  それでは入所理由の調査から主な入所理由を見てみたいと思います。他に移行の場が無い人を除いても、家族介護が困難…47.4%、地域のトラブル等の問題が生じた…10.7%、両親の死亡…6.8%となっているのです。これらを合わせて、家族介護の難しさ、限界が約65%にものぼるのです。この入所理由「家族介護の限界」ということは今でも一番深刻な問題なのです。
  さらに、「現在2週間以上の帰省を想定したときの不安」(複数回答)でも、一番多い回答が移動や外出の支援…43.6%続いて食事や排泄、入浴の介護…40.2%、常に目を離せない…35.9%なのです。障害が重度の人ほどなおさらのことだと思われます。家庭介護をしていらっしゃるあるお母さんは、「学校を卒業して、作業所で働き、給料をもらって欲しいものを買う生活は、ますます子どもの自信を深めていったように思われました。しかし、一方で、生活の繁雑な部分の判断を母親任せにしておけば楽ができるということを身につけているようにも思われました。また、母親の介護力の低下で、軋轢(あつれき)も生まれるようになり、ことばかけの中でも思わず口について出る言葉に子どもが傷つき、母親に腹を立てていることに気づきます。

 また、頼みごとをしても、「いや」と断られると心が痛むので、それなら言わないでおこうと、自分の要求を出すことに我慢してあきらめていることが多いと感じるようになりました。親のほうも体力を超えた介護をしなければならないことに嫌気がさしたり、ひたすら落ち込む日が増えました」と。1日24時間の生活を親に頼らざるを得ない人もいるのです。
  確かに保護者の加齢による介護力の低下もありますが(逆に加齢による慣れや技術の向上もあります)基本的には、入所時の理由はずっと、現在も解消されてはいないのではないでしょうか。家庭の介護を社会的に担う体制は模索されつつはあるものの、できていないのが現状ではないでしょうか。


266号 2005年5月29日

(38)親としてC 「親の願い」〜自閉症の我が子に残したいもの<前編>〜 冨永悦子

 今回からしばらく「つくしんぼ」会員の地域生活や施設への思いや 願いを掲載したいと思います。

 実年齢30歳の長男は、精神年齢は6歳くらいでしょうか?朝6時前から起きて自分の好きな焼き飯などを奇声を発しながら作り、母親が起きてくる前に一人で食べます。更年期障害と夜が遅い母(私)は朝起きが苦手で、一人で出来ているからと6時半頃しか起きません。それから洗濯、後片付けなど、長男をフルに使って出勤前のあわただしい時間が始まります。歯磨き・ひげそりなど繰り返し覚えたことは、日常生活に困らない程度はでき、週5日は大津の通所授産施設に通園しています。
2歳半で自閉症とわかり将来の自立に向けて家族はもちろん、保育園、小学校、養護学校で出会ったすばらしい先生や多くの方の協力を得ながら、その時期にしなければならない教育・しつけを出来る限り楽しんで頑張りました。
  親が元気な時は良いが、親無き後が心配。安心して暮らせるような場所を作りたいと、父親として常に家族の幸せを願っていた夫は、平成9年52歳の若さで、肺がんで永眠しました。死の直前に、まだ大学生だった次男に「お兄ちゃんとお母さんを頼む」と遺言していかなければならなかった夫の無念。
 これからが、父親として一番頼りにしたかったのに、悔しさ悲しさは今も癒えることはありません。その当時何も考えていないように見えた次男も、福祉関係の仕事がしたいと、2年間勤めた営業の仕事をやめて現在27歳で専門学校に通っています。
 私もあと4年で定年を迎えます。夫の意志を継いで、長男が生きている限り楽しく過ごせる場所を作っていこうと考えていますが、結局は生まれ育った家、地域で暮らすのが一番幸せではなかろうかと考えます。悲しいかな自分の思いや考えで行動判断することの苦手な長男には、支援する者が必要です。私が元気な時は一緒に生活し続けることができるのですが・・・。
(次回に続く)


270号 2005年6月26日

(39)親としてD 「親の願い」〜自閉症の我が子に残したいもの<後編>〜 冨永悦子

 自閉症の30歳の長男が、社会生活で出来ないことはたくさんあります。相手とのコミニュケーションが取れず自分の思いや考えを伝えられません。簡単で常識的なことも、教えられたことしかできず、訳の判らない奇声を発したり、自分で考えて行動することも難しい様です。出来ないことがいっぱいですが、自宅での日常生活はほとんど困りません。
  しかし、一人で目的を持って遊びに行くことが出来ないので、親がスケジュール等考えて一緒に遊んでやればいいのですが、休日にのんびりする気持ちのゆとりと体力が私の方にはありません。長男は朝の掃除、洗濯等の家事手伝いが終わったら結局何もすることがなくテレビを見ています。
 でも、月曜日から金曜日まで通所するところがあることは本当に有り難いことですし、月に2回ですが、障害者とボランティアで楽しむ「虹の会」という太鼓の練習をする場があること等、多くの方の理解と支えで、ここまでやって来られたのだと感謝しています。
 菊陽町にも、キャロットサービスや在宅支援制度などの福祉サービスがあります。困った時に助け合える制度があることは有り難いことです。より充実した制度になるためには、多くの声を届けることが大切なことかもしれません。

 障害者を我が子に持つことは私自身予期していなかったことで大変なこともありますが、それを喜びとして一緒に生活すれば、楽しいことや教えられることがたくさんあります。何が起きてもプラス思考で出来ることを支え合いながら生きていけるのは有り難いことです。
 我が子に何を残すかだけでなく、私の定年後の生き甲斐づくりとしても、地域で長男を含めて、活き活きと生活できることを探したいと思っています。いろんな人が休日や余暇に気楽に集えるような場所が地域にあったらいいな、そんなことを考えている今日この頃です。


274号 2005年7月24日

(40)親としてE 「知的障害の娘と歩んで」〜地域での共生を願う<前編>〜 西田美和子

 今回と次回は、つくしんぼ会員で、企業で働く知的障害者の娘さんのお母さんに、子どもの成長と成長の中で思ったことや地域への思いを書いていただきました。

 

 知的障害を持って生まれた娘も今年で22歳になりました。民間会社に就職して3年、毎朝5時半に起き、電車を乗り継いで1時間半かけて会社に元気に通っています。4ヵ月半前までは…。
 今大きな選択を迫られているところですが、後半でふれることにし、娘と歩んで気付かされた事をお話ししたいと思います。
 小さい頃は人見知りが激しい、言葉が遅い等ありましたが他の兄弟となんら変わる感じはしませんでした。小学校に入学する頃になり、違いに少しずつ気づき始めました。数と物が1対1で結びつかない。本を読ませたら1文字毎に息を吸って区切る。右や左、信号の赤や青が覚えられない等々。
  でも横断歩道は正しく渡れるんですよ。学習バトルの末に私が悟ったことは、左右や赤青等、人間が便宜上決めたことであって、右が左であったっていいわけなんだと。と同時に、何の苦も無く物や数を認識できる事がどんなに偉大な事かも気付かされました。
 小・中と普通学校に行きましたが、クラスの中でどうしても問題のキーマンになることが度々で、母として一番涙したのもこの時期でした。なんとか先生や仲間に支えられ卒業までたどり着きましたが、その先が見つけられません。選択肢は養護学校のみ、そこへ行く為には療育手帳が必要との事。
  いざ役場の窓口で手帳を提示された時、私は思わず担当の方にきいていました。「これには、どんなメリットがあるんですか?」 私はその手帳を手にすべきかせざるべきか迷ったのです。何だか人間の世界に1本のラインを引いて、娘はこっちの人間よと親自身が線引きしてしまうようで…。
 結局、娘は養護学校に進みました。 (養護学校)=(障害者)=(普通でない子)そんな私の差別の目も、色んな子どもと接する中で変わっていきました。
 普通って何?どんな基準?この子たち、それぞれに出来ることがあるんだと。

 つづく・・・


278号 2005年8月28日

(41)親としてF 「知的障害の娘と歩んで」〜地域での共生を願う<後編>〜 西田美和子

 小学校入学の頃は、物や数の認識が出来なかった娘ですが、ゆっくりとしたペースでそれも克服し、メールのやりとりや買物、お菓子作りも一人でやれるようになりました。
  また、養護の先生の適切な指導によって、学園バスから公営バス、そして電車と乗れるようになり、ハローワークでの2ヵ月に及ぶ訓練も受け、就職を勝ちとりました。ところが、年明けから不景気を理由に週1回の休みが2日となり、4ヵ月前からは週休5日になりました。交通費を除くと月2万円にもなりません。
 そんな状況にありながら、出勤前日には得意のクッキー作りに精を出し「これは工場長の顔だよ」と楽しむ娘の姿に、かえってせつなくなります。本人は仕事を続けたいようですが、このまま続けるといざ会社を辞めさせられた時、失業保険の対象からもれることを最近知りました。再就職の道が厳しいことを思うと、辞めることもためらわれます。
 先日の熊日新聞に知的障害者雇用で、大津町と福岡市の取り組みが紹介されていました。「民間企業に知的障害者の雇用をお願いするのに、自ら(地方公共団体)が雇用していないのはおかしい」との観点から公立の病院内の食器洗浄や配食、図書館での本の整理係として雇用を開始したとありました。
 自分が出来ることを社会に提供し、見合った対価を得られることは、大きな喜びと生きるエネルギーを与えてくれます。身体障害者の場合はその能力をある程度、正当に評価されるように思いますが、知的障害者の場合、個々の能力を評価されることなく、ひとくくりにされているように感じられます。
 障害者が自立するには、公的にも私的にも大きな援助を必要とすることは否めませんが、幸せに生きたいという願いは皆一緒です。また、健常者の背にも病、老い、事故による障害はありうるのです。
 地域での共生の道がもっともっと開かれることを願っています。私自身も、そのための努力をしていきたいと思います。


282号 2005年9月25日

(42)地域の人たちに支えられて@ 白石ひろ子

 今回から福祉工場で働いている“大ちゃん”のエピソードを交えながら、地域との関わりや地域への思いを会員の白石ひろ子さんに書いてもらいました。

 

 自閉症の息子は今年26歳。今の住所に熊本市内から移ってきて13年になります。これまで息子は近所の方たちに色々な面で支えられてきました。そのいくつかのエピソードをご紹介したいと思います。

1.猫騒動の巻
 「お母さん、トラは何て言っている?」「今、日本は○時○分、ハワイは○時○分、トラは何をしているのかなぁ?」時差を計算しながら、今日も何回となく息子は私に尋ねます。トラは近所の飼い猫で4年前に病気で死んでしまった猫のことです。生きている時、必ず我が家に顔を出してくれていて、息子はこの猫と何故かウマ(猫?)が合うらしく、特に猫可愛がりすることはないのですが、傍らに居るだけで安らぎを感じていたようです。
 さて、このトラが姿を見せない時ご近所を巻き込んでの猫騒動が起きるのです。「トラは来ていませんか?」と尋ね回るのです。見つけたら勝手に上がり込んでトラをさらって行ったとのことは、後に話を聞いて分かりました。トラが死んだ時、近所の方たちは「トラが死んだことは大ちゃんにはとても言えないね」と今でも秘密にしてくれています。
  トラが姿を見せなくなって毎日悲しい声で捜し回る息子に苦肉の策として、トラはハワイに移住したと説明しました。死んだのではないと分かって捜し回るのはやめることができました。その結果が前述の質問が今日まで続くことになった次第です。
  「トラは今○○してるってよ」そうしたやりとりの中で、私までもがトラは本当にハワイに住んでいるような気持ちになります。作り話はどんどん膨らんで、トラの近況報告をしますと、ハワイの日系日本猫会の名誉会長をしている。(時々私が会議の実況中継をします)家族は白猫の妻と6匹の子猫(今は成猫)、ワイキキの浜辺でサングラスをかけて寝転んで、時々は可愛い女の子に声をかけ奥さんに怒られている。早朝ゴルフへ行ったり、家族とドライブへ出掛けたり…。息子や私の心の中でトラは今も生き生きと楽しく生き続けています。
  ちなみにそっくりな猫を飼っていますが、性格の不一致で家庭内別居状態です。近所の方たちの理解と温かい目で見守って下さっていることに感謝の気持ちでいっぱいです。


286号 2005年10月23日

(43)地域の人たちに支えられてA 白石ひろ子

 今回も“大ちゃん”の地域の人との関わりを中心に書いてもらいました。

 

 26歳の自閉症の息子が土曜日の夜、喜んで出かけて行く所があります。近所の方たちに誘われて町の体育館でのミニバレーです。お向かいの方が一緒に連れて行ってくださいます。今日はそのお話しをしたいと思います。
 息子がミニバレーに参加させてもらうようになったきっかけは、地区で毎年開催される地蔵祭りの一環である組対抗のミニバレー大会でした。以前は、私が我家から出場していましたが、足腰が痛くなった私に代わって息子を補欠として参加を申し出ました。
 なにせ優勝チームには賞金が出ますので迷惑をかけない補欠で、と思ったのです。でも、組の方たちが、ルールも何も知らない息子に手取り足取りでいろいろ教えて下さり、励ましてくださったりで、息子は喜んで練習に参加するようになりました。下手ながらも試合に出場させていただき、打ち上げ会にも参加し、息子は誇らしげに帰ってきました。
 その後、組の方から「町内のミニバレークラブに大ちゃんを参加させんですか?」とお話しをいただきました。「迷惑をかけるのでは?大丈夫でしょうか?」「なーん、大ちゃんが楽しいと思うのが一番だし、練習したら上手になっていきますよ」とおっしゃって下さいました。息子もいきたいと希望しましたので参加させていただきました。
 そうは言うものの、心配で一度練習を覗きに行きました。そこには生き生きとした息子の姿がありました。上手でもない息子は「ハイ、○○さん次お願い!」コートの中で楽しそうに声をあげてボールを追っています。
 失敗した時は大袈裟なジェスチャーや大声で「ヨッシャー!」とちょっと変な言動もあるのですが、サークルの方たちが温かく見守り、サポートして下さっている事がひしひしと感じられ、有難く思わず涙ぐんでしまいました。対外試合にも上手でもない息子を出場させていただいています。
 サークルの方たちはミニバレー以外の場所でも息子に声をかけてくださいます。「ミニバレーの人たちは僕の仲間だもん」と誇らしげに言う息子は、地域の方たちから人生の大切な物を得ています。感謝の気持ちでいっぱいです。


291号 2005年11月27日

(44)地域の人たちに支えられてB 白石ひろ子

 学級での様子とともに、保護者との関わり、そして親亡後の願い、生き方について書いてもらいました。

 

 自閉症の息子は、今まで多くの方たちに支えられて成長してきました。言葉の理解や会話は苦手ですが、優しい人が大好きです。人の心の痛みにも一緒に悲しみます。
 息子を育てる時、私が大切にしたいと思ったことは、障害児学級だけの関わりではなく、健常児(者)との関わりも大切にしたいとのことでした。小学校は普通クラスに入学させるため、受け入れてくれる郡部へ転居しました。
 入学当初は叩かれたりのいじめがありましたが、先生方がその都度指導され、後では先生が舌を巻くほど1年生の子どもたちとは思えない関わり方をしてくれました。いじめもなくなり、クラスの子どもたちは、息子に自分で出来ることは自分でするように教え、出来ないことは援助や指導をしてくれました。
 遊ぶときもルールが分からない息子の手を引いたり、大きい子がおんぶをして走り回ったりしてくれていました。子どもたちが一回りも二回りも大きく見えました。2年生の時、授業参観で縄跳びがあり、1年生の時1回も跳べなかった息子が1回跳べました。そのとき保護者の皆さんが拍手をしてくれました。有難くて頭を下げました。「子どもたちも大ちゃんと関わって大切なことを学んでいますよ。一緒に育っているんです」今でも先生の言葉が心に残っています。
 学年が進むと授業も難しくなり、複式学級のある熊本市内へ移りました。先生によって対応が違い、音楽が大好きで上手に歌うことも出来、ピアノも習っていたのですが、音楽の先生が拒否され、親学級の子どもたちと一緒に音楽の授業を受けることは出来ませんでした。入学予定の中学校では、障害児学級の生徒は1科目も普通学級との交流もなく、部活動も参加許可がおりず、柔軟に対応して下さる菊陽町に転居しました。いじめはありましたが、先生方、保護者の方たちが理解や対応して頂きましたことを感謝しております。
 大人になった今も、職場や地域の方たち、バンドを結成して指導して下さっているピアノの先生方、卓球を指導して下さっているボランティアの方たちなど、多くの方たちに関わって頂き、息子の生き方はより豊かになっています。親亡き後も多くの方たちと関わり、援助を受けて生きることを楽しんでくれたら、それが親の願いであります。


299号 2006年1月29日

(45)娘とともに@ 坂田昌子

 今回から2回にわたり、地域で娘さんとの生活、また、今年4月から施行される障害者自立支援法への思いを書いてもらいました。

 

 平成18年新しい年が明け、新しい何かが変わるのだろうか?人は延々と生活の営みを繰り返しながら生きている。昨年中、一年特別に何をしたでもなく平凡な日常の中で、思いつくまま感じたことを書いてみたい。
 私の日常はいつも娘とともにある。春は満開の桜の下を歩き、夏は涼しい水辺へ行き、秋はコスモスや紅葉を探しに出掛け、冬は温泉めぐりをする。ここ15年はそうした1年を繰り返してきた。日々の暮らしの中でも、なるべく外出するようにしている。買物に出掛けたり、散歩に出たらテクノパーク、運動公園、江津湖へ足を伸ばすこともある。
 買物では、重い袋もしっかり持ってくれるので助かっている。歩くことも一人では長く続けることは難しいけれども、本人の健康のためにと思っていることが、結構私自身のためにもなっているのかもしれない。いつかは本人が一人立ちするときに、私とともに過ごした日々が生きる支えとなって、力強く生きていってくれることを願っている。
 障害の子どもをもった親は、よく1日でも子どもより長く生きたいと言う。その切ない思いは良く分かるけれども、どんなに頑張ってみても、子どもより長生きすることは現実には難しい。だからこそ、今一緒にいるこの時間、精一杯の愛情を注いで、できる限りのことをやっていれば、いつかは別れる日が来たとしても、後悔はないのではないか。私はそんなに思っている。
 人は生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きている。富む者も、権力者でも、誰一人も死から逃れることはできない。人は老いてやがて死んでいく。財産、地位、名誉、権力、何も持っていくことはできない。死は皆、平等にやってくる。私がこんなことを考えるのも年を取ったせいなのだろう。
 しかし、どう生きるかは、個人の自由。警察の厄介にならない限り、自分の人生を自由に生きられる今の日本は、とても恵まれたいい国であると思う。今年4月には障害者自立支援法が施行される。障害者をとりまく環境はどう変わるのだろうか?次回それを考えてみたい。


303号 2006年2月26日

(46)娘とともにA 坂田昌子

 平成18年4月から障害者自立支援法が施行され、サービスの1割を負担しなければいけなくなります。国も県も莫大な借金があるといいます。これが個人か企業だったら、とうの昔に破産しています。なんでそんな巨額の数字になるのか?私の頭ではとうてい理解不可能です。
  財政事情が悪ければ、負担がかかってくるのは当然かもしれません。高額商品に高い税金をかけたり、所得の多い人には所得税をたくさん払ってもらったり、儲かっている企業には利益を社会に還元してもらいなるべく弱者にしわ寄せのない社会をと、私は単純に考えてしまいます。
 2年程前に宮城県知事が「脱施設宣言」をされました。障害者を施設から地域で自立した生活を送れるように支援していこうというのであれば、もっと個々の能力や障害の程度に応じたサービスが必要です。しっかりした社会的基盤と社会資源が整備されることが望ましいです。社会資源は何もないのに、負担を強いられるのは、障害者が自立するどころか余計に自立が難しくなるように思えます。
 実際に施行されるに伴って、軽度の障害者は働く場所を確保して何らかの賃金を得ようとする動きも見られます。なぜなら、サービスの1割負担となると生活できなくなる人も出てくるでしょう。親と同居しているから、生活できている障害者がほとんどでしょう。
 ある自立支援法に関わった人から県主催の講演で「今までの措置制度では、入所施設には一人当たり高額な人で40万円の措置費が支給され、障害者年金の受給者もいます。施設にいては使うこともなく貯蓄されているお金がかなりあるから、それらを出してもらおう」と聞きました。
 確かに知的障害の人はお金がいくらあっても、それをうまく使いこなすことはできません。だからこそ障害者の生活を支えるには、社会的なシステム、人のネットワークが必要なのだろうと思います。 障害者自立支援法も介護保険に似たしくみになるでしょう。少しづつでも良い方向に改善されて、真に障害者を支える障害者自立支援法になることを、期待したいものです。


307号 2006年3月26日

(47)ひととき@

 「直美おはよう」「お父さんおはよう」朝の5時半。私と直美(26歳、ダウン症)の1日の始まりです。つれあいの太子は5時に起きて、朝食の準備が始まっています。みそ汁のにおいがプーンとしたり、コトコト何かを刻む音が聞こえる中でのあいさつです。
  直美の起きてからの着替えは超スローです。立ち上がりから、ズボンに足を通すこと、上衣を着ることマイペースなのです。トイレと顔洗いを済ませ朝食です。この時間だいたい6時前後です。3人で「いただきます」。時には直美の「お先にいただきます」の声がする時もあります。
 テレビのスイッチはすでにONです。「直美、今日の天気は何だった?」嬉しそうに「今日は晴れ」とか気が沈んで「雨だったかな。くもりかな。傘はどうしようか?」との話ですが、それも楽しそうです。「ごちそうさま」そして日課の一つで新聞に目を通すのですが、最初のページからめくり、目を通すのですが、一番念入りに見るのはテレビ欄です。
 見たい番組には赤ボールペンで横線です。二つの局がダブっているような時間帯もあります。「今日はフレンドパークがあるよ」とか「歌謡コンサートがあるよ」と直美。「今日のゲストは誰かなぁ?」「○○さんと○○さん」と言いながら、目は新聞に注がれている時もあり、好きなタレントの名前があると笑顔いっぱいです。
 保育園の頃から覚えた“かな”や“カタカナ”学校で覚えたたくさんの“漢字”。本が好きなことも影響していると思います。文字が読めることは強みであるとともに、生活の上でおおいに役立っています。
 朝7時過ぎ「ワンパーク」や「体であそぼう」などを身振り手振りで嬉しそうに見ています。そして8時30分になると「行ってきま〜す」と明るい声で、熊本菊陽学園へ出発です。近所の人から「直美ちゃん、おはよう」や「行ってらっしゃい」と声をかけられ、笑顔で「おはようございます」「行ってきます」とひかえめな声であいさつをしています。
 小さいころから、ご近所の方からの声かけがあることを私たちも嬉しく思います。また、直美の気持ちを和ませてくれていると思いますし、発達にも大きくつながっているものと思います。 親子の会話とあいさつ、そしてご近所とのあいさつや会話を通じてのお付き合いを大切に大切に続けていきたいものです。


311号 2006年4月23日

(48)ひとときA

 前回に引き続き、“あいさつ”についての思いを書いてみたいと思います。

 

陽が昇り「おはよう」のあいさつで起き、陽が沈み夜は「おやすみなさい」で寝るまで、生活の場は家庭であったり、直美の場合は施設であったり、また休みの日は外出先であったりしますが、どこでもあいさつが伴います。
 4月も終わりが近くなりましたが、入園や入学、進級、そして社会人になられた人たちは多いと思います。胸をふくらませ、不安と希望でいっぱいのことでしょう。小学校に入学することによって、これまでの生活とどこが違うのでしょうか。
  子どもたちは、先生の話を聞き、文字を覚え、学びを深めていくことだと思います。そして、ことばで話し、人とコミュニケーションをとり、ことばで自分の思いや考えを表現します。障害のある子どもだって、自分でしゃべれなくても、文字が書けなくなったって、身振りや表情で思いを表現します。人間が人間となっていくドラマが展開されていくのです。
 そういう生活の中から、義美「直美カレーが好きかな」 直美「好きだよ。どうして?」どうしてと聞かれるとこちらが返答に困るときもあります。「よく、食べるからさ」と答えたりします。また、「激しい雨は降らなかったね」「雷、鳴らなかったね」と直美。昼間の雷はそんなに怖がらないけど、夜の雨や雷は「こわい」という思いがあります。
 また、菊陽学園から帰って風呂に入ったあと「お先しました」「おまたせしました」と言って大きな身体でにこっと笑ってくる直美。たわいないどこの家庭にもある光景だと思いますが、親が子どもの話を聞き、いっしょに驚いたり、笑ったり、悲しんだりして、親が聴き上手になることが大切だと思います。
 「ありがとう」「はい」「すみません」「おはようございます」「さようなら」「おやすみなさい」「いらっしゃい」「いいえ」こういう言葉は親子であってもさわやかですし、あいさつは先に声をかけ、明るい返事をすることだと思います。とは言っても私たちはどうかなと思いもします。
  直美もことばや成長は遅いかもしれません。しかし、たとえ歩みは遅くとも、また退行もあるかもしれませんが、必ず成長し続けているものと信じています。そしてことばや行動を通じて、地域の人と結びつきを深め、地域の人々とともに歩いていきたいと思います。


315号 2006年5月28日

(49)おだやかにすごそう 坂本いつ子

 この4月から「障害者自立支援法」が施行され、知的、身体、精神障害者が一元化されました。今回は、きくよう地域生活支援センターのデイサービスに通っている精神障害者の家族に手記を寄せてもらいました。

 

 「おはよう」いつもの朝が訪れる。どこの家庭にも流れる風景なのだが、違うのは今、夫は私が側にいて手を差し伸べなければ何も出来ないことだ。私はいつものように靴下、シャツ、ズボンなどを順番に並べる。
  夫は裏と表を間違えながら時間をかけて着替えるのが我が家の日々の風景である。夫は回りから見ても明白なほど日々、記憶が失われていく。夫を見ていると私に出来ることは何だろう?と自問自答している自分に気付く。
 時として、私の二人の弟がたたみかける様に詰問する。「自分の体を壊してまで自分の夫の面倒を見るのか」と。私が昨年、脳梗塞で倒れたことを心配しての言葉であるのは理解してはいるが、私にとってはつらい言葉だ。記憶を失うことに対しての切なさ、狼狽を見せつつも懸命に生きる夫の心が本当の意味で彼らには写っていないように思える。
  しかし、日々の現実は困難の折り重なった上に成り立っている。夫はデイサービスに行くことを拒絶し、終日家にこもろうとする。統合失調症の息子は夜、床に就くことを拒絶し、夜通し起き家の中を歩き回る。
 「あるがままをうけいれよう」「ゆるやかに、しなやかにいきていこう」「いまをたいせつに、いきていこう」心からそう思う。確かに心の中には、たいそう立派な看板を掲げてはいるのだが、正直これを実践するのは困難だ。
  人間が人間たるゆえんと自分に言い聞かせているが、今言える確かなことは、夫の時折見せる心からの笑顔、謝意、息子にも言えることだが二人が時折見せる心からの感謝の気持ちは、必ず相手に伝わると言うこと、そして、それは相手の心を揺り動かすということを二人から教わった。
 若い頃は、賞やメダルを取った方々のコメント「すべて周りの方のサポートがあっての結果です」を聞くにつけ、本心は自分の努力の結果では、とよく思っていた。しかし、この歳になってはっきり言えるのは、今、自分が強く生きていられるのは周りからのサポートであるからだと。障害の家族を二人も抱えたことは大変な苦労でもあるが、自分が日々この場から逃げ出さないでいられるのは、周りのサポートがあるからに他ならない。
 このような家族ではあるが、お互いを思いやり温かい思いで一日が終われる日も多い。また、明日が訪れる。何も心惑わされず横になれることに感謝しよう。そしていつもの様に、明日もまた、靴下、シャツ、ズボンを並べられることに感謝しよう。今日のこのことは忘れて、明日は新しい一日と思えることをささやかな幸せとしよう。


319号 2006年6月25日

(50)福祉と私の活動 田島敬一

 今回も前回に続き、きくよう地域生活支援センターのデイサービスを利用している障害者の家族の方に手記を寄せてもらいました。

 

 精神障害発症のメカニズムは、現在どこまで解明できているのでしょうか。患者家族としては、一日も早い解明と、画期的な治療法が現れてきてほしいと願ってやみません。一筋の光明は最近の加齢による認知症についてです。
 比較的若い段階で年をとってから認知症になるかどうかを知ることができ、薬や知的訓練によってある程度進行を遅らせることが可能になってきたとか報じられていることです。足し算や引き算のような単純計算や文章の音読をするのがいいとか、囲碁・将棋や懐かしい故郷の風景や美人画のジグソーパズルが脳の活性化にいいとかいう話です。歌はさらに効果的とか・・・。
 私は認知症だけでなく精神障害についても薬とともに歌を歌うことが治療手法として科学的に確立されないか、今後に期待したい気持ちでいます。そう思うようになったのは、2人の作曲家兼歌手に出会ってからのことです。古家建雄さんとうらた剛さんは、西原村のイメージソングを4曲誕生させました。
 私はそれまで音楽番組にはそっぽを向いて、チャンネル争いに負けたらくるりと背を向ける人間でした。しかし、俵山に回る風力発電をイースター島のモアイたちと見なして、福祉の先進国デンマークの方角から吹いてくる風を見つめていると歌う「夢運来風(ムーンライフ)」に出会ってからは車の運転中にも歌を練習する人間になったから面白いものです。
 うらた剛さんは、お年寄りの福祉施設などを訪問するミュージックボランティアをし、懐メロやその町村のご当地ソングを作曲して歌うなどしています。人さまに喜んでいただくことを我が喜びとする活動はついに100回を超えました。感謝する人々によってグランメッセで祝い会まで開かれました。
 このように何事も感謝、ありがとうの気持ちで活動されるミュージックボランティアを、精神障害者の施設でやっていただいたら、症状が軽くなりはしないかと思うのですが・・。県内にもシンガーソングライターとよべる音楽家がおられます。せっかく作った歌を埋もれさせるのではなく、文化を温存し育てる役割をこの出会いは果たすようになりはしないかという事です。
 風車のふるさとデンマークは、福祉のふるさとでもあり、サービスを受ける側が積極的に発言をしていき、不便に思うところ、不都合なところを変えていく「ユーザーデモクラシー」を国民ひとりひとりが身につけていったことが福祉の水準を押し上げていった歴史がある、と聞きました。
 西原村の文化創造館「風流(カザル)」で4月16日(日)西原村と阿蘇のイメージソングお披露目のコンサートを開きましたが、どの歌も心を癒す力を持った曲ばかりでした。音楽との接点を作り出し、流れを菊陽病院をはじめ、精神障害の人々の心を癒しへと導き入れたい思いで今後取り組んでいきたいと思っています。


323号 2006年7月23日

(51)人と人との間に「心」は生まれる 田島敬一

今回も前回に引き続き、きくよう地域生活支援センターのデイサービスを利用されている精神障害者の家族の思いを寄せてもらいました。

 

 精神障害者の共同作業所『やすらぎ』(菊陽)が、NPO法人となっての総会と祝賀会が7月13日(木)に開かれました。これまで小規模共同作業所として、地域の支援者などのご協力を受けて運営されて10年。このほど障害者自立支援法制定で法人化をしなければ運営が難しくなるとしてNPOとして脱皮を図るものです。
 普通に生活をしていた人が、色々な悩みやストレスに屈して治療を受ける事態になったけれども、再起できる、就労することができるとすればどれほど希望をあたえてくれるでしょうか。
 最近、徳富蘆花による「竹崎順子」を涙、涙で読み終えました。妻の愛子を癇癪(かんしゃく)で殴っていた蘆花が、この著作後、こころの大変革を起こし、急に思いやりのある人になり、夫婦で世界旅行に出掛けたりしました。愛子のふるさと菊池市では、この本にちなんで「おしどり夫婦の里」をうたっています。この本は日本で初の女性の伝記かもしれません。
 ひとりひとりに言葉をかけ、愛し育てていく女性教育先駆者、竹崎順子の「けっして屑は出さない」という姿に接して、人間社会を良くしていく鍵は、人と人との間に通う『こころ』にあるんだなあと、心に沁みました。人と人の間に『こころ』をつなぐ共同作業所。困難を乗り越えての自立への船出に心からの拍手を送ります。


327号 2006年8月27日

(52)蘆花は熊本の人だった 田島敬一

 今回も、きくよう地域生活支援センターのデイサービスに通所している障害者の家族に原稿を寄せてもらいました。

 
障害者の家族としての悩みや心の葛藤もあると思いますが、そういう生活の中でも心のゆとりをもっての家族生活を送られていることが感じられます。私たちもそうありたいものだと思います。

 今、夕刊掲載の「草枕」が楽しみです。よく知っている金峰山の鎌研坂や峠の茶屋など、文豪・漱石がさりげなく熊本を紹介してくれています。これまで連載の八雲や有斐と続き、明治・大正から戦前・戦後と熊本の歴史と世相がこの連載からよくわかります。
 次回は徳富蘆花を期待したいものです。戦前、国語の教科書には常にトップで顔を出していた作家で、全国に名が轟いています。しかし、熊本県人には東京の人というイメージがあるのではないでしょうか。
 実は私もそうでした。「不如帰(ホトトギス)」は上州伊香保が舞台の出世作。大逆事件助命嘆願の話や「謀叛論」の演説と、日本史を背負っている感じです。トルストイの影響で農業を始めた晩年がまた、あちらでの話。
 しかし、わが西原村で17年間も家塾を開いていた「竹崎順子」という人物を蘆花が伝記にしてくれていた縁で熟読してみれば、やはり蘆花は熊本の人だったんだなあとしみじみ感得できました。
 本山の小学校に通い、大江に住んだり、京都で失恋した際、叔母の竹崎順子になぐさめられたり。妻の愛子さんが菊池市出身ということ、兄・蘇峰の結婚を機に小楠の息子・時雄を追って去ったことなど、熊本を青春の苦悩とともに歩き回る蘆花の姿が、生き生きと見えてきました。
 文学の力は、地方の時代の今日、地域の活性化に活かさないともったいないことです。日本全国や、アジア・米欧豪からの観光客を大いに誘致する上からも、文学で熊本を紹介してくれる蘆花や漱石・八雲・有斐などの作品に、まずは県民自身がじっくり親しむ必要がありそうです。


331号 2006年9月24日

(53)私の「病気」と「働く」ということについて@ 田中信夫

 今回から2回にわたって「きくよう地域生活支援センター」を利用している精神障害者の人に、入院生活のこと、働くことへの日ごろの思いを書いてもらいました。

 

 僕が発病したのは、たぶん、22歳の夏の頃だったような気がします。もう25、6年前の事です。自分で言うのもなんですが、闘病生活は、かなり長く、大変なものでした。
 何がどうたいへんだったか、それはひとことでは言い表せません。ただ、かなりきつく、しんどかったのは事実です。入院生活も、全部合わせれば5年以上経つと思われます。初めの頃は、とにかく神経衰弱が激しく、頭もボケていました。
 ここでちょっと、入院生活の思い出話をしたいと思います。自慢をするようですが、僕は高専時代、ソフトボールではホームランバッターでした。しかし、入院中はホームランどころではなく、まったくといっていい程、ヒットも打てない状態でした。もともと守備のほうもまあまあだったのですが、入院中はエラーばかり。それ程、神経衰弱はひどいものでした。
 頭のボケのほうも、少し良くなってから、ミーティングの書記をしたことがあったのですが、なんせ記憶力がなかったもので、人が喋ってから間を置かずに、すぐに書き写していたものです。
 病院を退院した後、デイケアに入ることになるのですが、この時代も、まだ、身体のほうはきつかったのですが、中々楽しい思い出もたくさんできました。もちろん、嫌な思い出もありますが。
 デイケア時代は、いろんな活動をしたものです。スポーツをやったり、みんなで劇を創ったり、砂時計という文集を創ったり、時には皆でカラオケに行ったり。そうそうキャンプも楽しい思い出です。
 嫌な思い出は何かというと、暴力を振るったことでしょう。もともと僕は、殴られても殴り返さないような人だったのですが、この頃は少し妄想もあったようです。それで暴力が原因でデイケアを止めることになります。
 その後しばらくして、やすらぎハウスという作業所に入所します。ここで、いろんな人と出会いますが、その中でも忘れえぬ人々の中の一人である1人であるOさんという女性と出会うことになります。この方は、僕と同じ魚座なのですが、僕と違って非常に頑張り屋さんでした。その上、優しい。精神病患者を差別しない、とても魅力的な女性です。     次回に続く


335号 2006年10月22日

(54)私の「病気」と「働く」ということについてA 田中信夫

 この作業所で、僕は働くという喜びを再認識することになります。患者さんたちの中には、働くことはキツすぎてやりたくないと思っている人もいるようですが、本当に働くということはいいことです。キツイからかえって生きがいになる。自分に自信がつく。そういうメリットがあります。皆さん少しでもいいから働いてみませんか。自分に自信がついて余裕が出てきます。何よりも自分を差別しないようになります。労働の喜びを知るということは、自分という人間にとって非常にプラスになることだと思います。
 しかし、また残念なことに、ある人との口ゲンカにより、やすらぎハウスも飛び出すことになります。僕の場合、病気になってから本当に短気になっていけない。どうしてでしょう、本当に解らない。もちろん今の僕は、昔と較べたらずいぶんと気が長くなったものですが。
 そして、OT(作業)に通い始めて、現在に至っているわけです。今は、けっこうOTを楽しんでいます。OTの創作活動では、僕は本を読んでいますが、本を読んでいるときに、よくスタッフの方々から話しかけられます。その時に、僕はちょっとエラそうですが、本の解説などをしております。これが、結構楽しい。また散歩に出かけた時に、スタッフの方々やメンバーの人たちとの会話も楽しい。カラオケも楽しい。軽スポーツも楽しい。何か楽しいことばかりで罰が当たりそうです。
 それで最近、新聞配達を始めました。本当はそういう動機で始めたのではないのですが、そういうことにしておきましょう。実際のところは、将来のための資金稼ぎとお小遣いが少々ほしかったからです。
 少し話がそれますが、支援センターで過ごす時間も楽しいものです。ここでも忘れ得ぬ人々との出会いがありました。いろんな人たちとの出会いがあることは、本当に嬉しいものです。
 最後に、仕事に関する自分の考えを少しばかり述べたいと思います。ストレートに言わせて貰えば、働くということは人間の義務だと思います。皆、キツイところを頑張って働いているのだから、自分だけ楽して何もしないというのはズルイことです。もちろん、病気がひどいとか働くと状態が悪くなるとかいうのなら仕方がないことでしょう。しかし、それ以外の人で症状が安定しているのなら、働くべきだと思います。
 自分に合う仕事とか、楽しい仕事をしたいとか言って、いつまでも働く気がないというのは、それは甘えでしょう。自分にできる仕事があるのなら、なんでもやってみるべきです。自分に合っている仕事などそうそう。見つかるものではない余程、何かに才能があるのではないと、中々見つかるものではないと思います。自分が出来る仕事ならなんでもやってみる、こういう姿勢が大事でしょう。
 なんかエラそうなことを書いてしまいましたが、こういう僕も、まだまだ新聞配達だけじゃ甘いと思う。しかし、着実に、未来の自分のために、今、やるべきことをやっていこうと思う。誰のためでもなく、自分の人生のために。


340号 2006年11月26日

(55)共に過ごす中で@ 野田由美

 菊陽町手をつなぐ心障者の会(つくしんぼ)を通じて、障害者列車ひまわり号にボランティアとして参加された方の感想や障害者への関わり、新しい出会いなどの手記を寄せてもらいました。

 

 私は、毎年この季節、障害者列車ひまわり号に乗って秋の一日を楽しみます。ひまわり号は、車椅子の通れない改札口、階段が多く障害者の利用できるトイレのない駅や列車の構造などで、障害者の方が自由に旅ができない現状の中、列車に乗って旅をしたいという願いを実現させるために走らせた専用列車です。
 私はボランティアとして参加して10回ほどですが、ひまわり号運動は、熊本ではもう23回目、全国でも各地で列車が走っています。私自身、参加した当初は、何かしなければどうしたらいいのかと緊張し、正直疲れたり十分に話せなかったりという状況でした。
  でも、回を重ねるごとに出会いがあり、少しずつ自分自身が一日ゆったり流れる時間に浸り、楽しむようになりました。障害者の方とはもちろんのこと、その御家族、ボランティアの方々との出会いは、職場と家の往復で毎日を過ごしている私の視野も広げさせていただいていると思います。
 そして、ひまわり号の中で一番の楽しみは、出発時は少し緊張気味だった参加者の方々が、一日をゆっくりと共に過ごした帰りの列車の中でみな笑顔になることです。体の疲れはあると思いますが、その笑顔は温かいお湯につかった時のようにほんわりと見えます。
 しかし、正直なところ、行く先々での現実は厳しく、一番困ることがトイレの少なさです。車椅子の方々は長時間並んで待たなくてはなりません。私がいつも思うことは、障害者専用と特別に作るのではなく、すべてのトイレが車椅子も入れるようにすればいいのにということです。そして、ひまわり号は走らなくてもいい社会であればと思います。
  でも、逆にひまわり号が走ることで変わっていく、変えていけることもあります。大分の竹田市に旅をした時、人がひとりしか通れない幅だった改札口が、ひまわり号が来ることで広げられました。また、ひまわり号の出発場所である熊本駅も少しずつ改善されていっています。このことは、障害者のためだけでなく、すべての人が通りやすく使いやすい場所になっていくことなのです。トイレも同じことです。


344号 2006年12月24日

(56)共に過ごす中でA 野田由美

 10月29日の熊本から阿蘇いこいの村駅とリンゴ狩りへの障害者列車ひまわり号にボランティア参加された方に、今年4月から施工された「障害者自立支援法」についての考えや、共に過ごすなかでの障害者への思いを寄せてもらいました。

 

 私が、ひまわり号に参加して、障害者の方やそのご家族の方と共に過ごし話していくことで、学ばせてもらうことが多くあります。
 その一つが、障害者自立支援法です。障害者の方にとって自立どころか、大変厳しい生活にさせる法律であるということだけ知っていましたが、列車の中での学習会で、本当に驚くほどの改悪の法であることがわかりました。働いて工賃を貰うために利用料を払わなければならないこと。
 生きるために最低限必要なトイレ、入浴、食事介助についても、利用料を払わなくてはならないなど、障害者の方々の普段の当たり前の生活そのものが否定されるような法律です。このことも内容を知らなければ、自立支援という言葉にだまされてしまいます。障害者にとって、本当の自立とはどんなことなのか考えられていないことは確かです。
 障害者だけ特別扱いするのは、周りに対して差別だという人がいます。「特別扱い」とはどんなことなのでしょう。本当に特別扱いでしょうか。生活しにくい部分を補ったり、手助けしたり、応援していくことは特別扱いなのでしょうか。
 私は障害者の方々が安心して暮らせる社会が全ての人にとっても、優しい社会だと思っています。
共に過ごし、話したり、行動したりする中で感じられること、わかることがあります。たくさんの方に、ひまわり号に参加してもらい、少しでも障害者の方々のことや思いを知ってもらいたいです。私はこれからも
 自分にできることから少しずつ行動していきたいと思います。その一つがひまわり号です。
 皆さんも一緒に参加しませんか。きっとステキな出会いがあると思います。


348号 2007年1月28日

(57)SO(スペシャルオリンピックス)との出会いから今日まで@ 村山陽子

 〜飛びたとう はばたこう 勇気の翼〜のスローガンのもとに、昨年11月3日〜11月5日に行われた障害者のオリンピックス大会「2006年第4回スペシャルオリンピックス日本夏季ナショナルゲーム・熊本」に、私たちつくしんぼの会員から村山 恵さん(ボウリング)白石大輔さん(卓球)村上和康さん(ゴルフ)の3名が熊本代表として参加しました。
 今回は村山 恵さんのお母さんにそれに向けた取り組みを書いていただき、次回は村山 恵さんの感想を寄せてもらいます。
 大会に向けて10月14日に行われた菊陽地区トーチランには町民の皆さん方のあついあつい応援と励ましをいただき、ありがとうございました。
 それに加えて、昨年9月23日に開催されました外村歌謡教室の皆さんによるチャリティーコンサートでは、その浄財を“つくしんぼ”と町社会福祉協議会に寄与していただき、感謝の念でいっぱいです。大きな励ましと勇気を与えていただきありがとうございました。

 

娘が養護学校を卒業した平成12年5月に我が家は菊陽町民となり、つくしんぼの仲間に入れていただきました。 就職して2年間は仕事に励む毎日で余暇を楽しむ余裕もなく、運動も苦手なタイプで外出も好まない娘でした。
 平成14年3月友人の誘いでSOボウリングプログラムを見学、体験させていただきました。アスリートの中には知人もいて、優しいコーチ・同世代の学生ボランティアにすっかり魅力を感じたようで「参加する」としっかり意思表示し、やる気をみせてくれました。
 さっそく入会手続きをしましたら、他にも水泳・陸上・体操などたくさんのプログラムがありました。運動不足解消とダイエットにと思い、他も勧めましたが受け入れてくれません。それでも翌年、菊陽アスパを会場にスケートプログラムの案内が来ると、町内と身近に感じたのでしょうか「行ってみたい」とまた、やる気を出してくれました。
  友ができ、楽しさを味わって少しずつやる気も育ち、休まずに頑張る姿がありました。このスケートでは幸運なことに、2004年長野冬季ナショナルゲームに参加させていただき、ビッグハットの氷上で滑るという素晴しい体験ができました。2005年ワールドゲームではアスリートボランティアとして参加、外国の人たちとの交流もしました。
 そして2005年から新しく始まった乗馬プログラムにも参加し、娘の世界がどんどん広がっております。生活が充実して笑顔も多くなっております。
 ボウリングでは、ボウリング場の友の会にも参加させていただき、一般の社会参加へと発展し嬉しい限りです。(次回へつづく)


352号 2007年2月25日

(58)SO(スペシャルオリンピックス)との出会いから今日までA 村山陽子

 菊陽町でも2回のトーチランをはじめ、2006年のSOナショナルゲーム熊本でたくさんのボランティアさんに参加していただき、アスリートたちを応援してくださり理解が深まっている実感があります。また、サッカーや卓球などのプログラムも開催され、アスリートとボランティアの和が大きくなっていることに心よりお礼申し上げます。娘はこの熊本での全国大会でボウリングに出場し、金メダルでした。この体験がまた、自信となり、今年もボウリング・スケート・乗馬に参加し、仕事への意欲にもつながって、いきいきと輝いています。どうぞ今後とも、つくしんぼと共によろしくお願い致します。

 

SO夏季ナショナルゲームズ熊本大会ボウリング競技参加  SON アスリート 村山 恵

 全国大会では、いろんな友だちやアスリートに出逢ってよかったです。はじめて阿蘇ファームランドで泊まれてうれしいです。いろいろバイキングもあったけどとてもおいしかったです。また行きたい気持ちです。
 交通センターのボウリングでは、いろんなコーチ、ボランティア、友だち方に逢えてこうえいです。
 第1位になりましたのでうれしかったです。金メダルとれて超ハッピーです。
 コーチ・ボランティア・友だち・ファミリーの方々、SO夏季ナショナルゲーム熊本大会の手伝って下さってありがとうございます。これからもコーチ・ボランティア・友だち・ファミリーの協力をもらってがんばりましょう。仲良くしましょうね。      
(原文のまま)


356号 2007年3月25日

(59)息子「竜也」が20歳になって@ 大野美智子

 「竜也くん成人おめでとう」
 今回は、成人までのお母さんの喜びや悩みを綴ってもらいました。

 

 障害のある子どもを持たれた親御さんのほとんどの方が、どうして私たちの所に産まれて来たんだろうかと思われたのではないでしょうか?私もその一人でした。どうして私たちの所に生まれてきたんだろうと何度思ったことか。仕事をしながら障害のある子どもを育てていくのは、大変なことでした。
 3歳になり、地域の保育園へ入園させ、年中になるときに園長先生から「竜也くんはそのまま年少さんに居たほうがいいのではないですか」と言われ、ショックを受けました。そんな時知り合いから隣接地域の幼稚園を勧められ見学に行きました。「どんな障害の子どもでもその子の年齢に応じた対応をしてあげることが大切です」という園長先生の一言で、車で片道30分でしたが通わせることを決めました。1年半でしたが、竜也にとっては楽しい幼稚園生活を送れたと思います。
 小学校に入学したときも不安でした。地域の保育園には少ししか通っていなかったし、人に対して慣れるまでに時間がかかる子だったからです。しかし、竜也のことを覚えていてくれた子が同じクラスにいたのがラッキーでした。先生方にも竜也のことを理解していただきたかったので、私も積極的にしなくてはと思い、5年間役員を務めました。高学年になって一人の子に嫌がらせをうけているのを周りの子が見つけてくれ、ちゃんと竜也をかばってくれていたということを担任の先生が目に涙をいっぱいに浮かべて話されたことを今でもハッキリと覚えています。竜也のことをちゃんと見ていてくれた子どもに感謝、その事を隠さずにすぐに報告にこられた先生に頭の下がる思いでした。
 こんなにも周りの人に助けてもらっているのに竜也は学校へ行きたがらなくなりました。なんで、どうして、何が嫌なの。竜也のためと思い私なりに何でもやってきたつもりなのに、行き詰っている自分がいました。朝から学校へ行かせるのに何も言わない竜也に向かって説得。やっと車に乗ってはくれるものの、学校に着くと今度は車から降りてくれず、クラスの子どもたちが迎えに来てくれます。調子が良い時はすぐに降りてくれるのですが、私も店の仕事もあり余裕のない時には竜也にひどい言葉を言っていました。
 今にして思えば、竜也自身が、みんなにできることが自分にはできないことや友達に何でもやってもらえることに耐えられなくなっていたような気がします。

次回につづく


361号 2007年4月29日

(60)息子「竜也」が20歳になってA 大野美智子

 中学校では、クラスにほとんど入れなかったものの支援学級のほうにクラスの友だちがよく遊びに来てくれていました。先生から「竜也くんにみんなが癒されているんですよ」と聞いたときには竜也も人のために役に立っているんだと安心しました。中学2年生のとき、担当の先生から託麻ワークセンターの作業所のことをお聞きしてすぐに支援学級のみんなで見学し、一目で竜也はここしかないと決めました。早速実習に行くことができましたが、またあの悪夢が。車には乗ってくれるけれど、降りません。しかし職員の方からの「無理をされなくてもいいですよ」の一言で気持ちが楽になりました。
 その後、大津養護学校へ進み、実習はすべてワークセンターにお願いしました。卒業後はすぐにセンターへ通えると思っていた私は甘く、手続きをして4年がかりでやっとセンターへ入ることができました。それなのに今度は障害者自立支援法が導入され、負担金の多さにショックを受けました。中学から実習に通わせて、やっと職員の方にも一日の生活パターンも分かってもらい、人と接することが下手だったのに、今ではパンの販売が好きで、ちゃんとお客さんにも接することができるまでになりました。
 成長したと感じたのは中学校の同窓会のときです。友だちが迎えに来てくれ、すぐに車に乗り、帰ってきた時はとても満足そうでした。また「つくしんぼ」の成人を祝う会では、私は初めての参加で緊張していたのに、竜也はマイクを持ってしっかり挨拶をしているのです。この会に数年間連れて来て頂いていた小学校の野田先生がびっくりされていました。「毎年見ているけど今年は特別ですよ」と言われ、親としても満足です。
 20年前に竜也が産まれてきたことで、いろんな人との出会いがあり、人の優しさを感じました。今では私にとって竜也は宝物です。これから先この宝物がどんな輝きを見せてくれるのか楽しみです。


368号 2007年6月24日

(61)新しくなった「やすらぎハウス」 やすらぎハウス指導員 塚本八恵子

 「障害者自立支援法」が施行され、それまでの小規模作業所では運営が難しくなり、「やすらぎハウス」はNPO法人を立ち上げ新事業に移行しました。そのやすらぎハウスの指導員の一人に原稿を寄せてもらいました。

 

 1996年9月に障害のある人たちや障害のある人たちに関わる人たち、またそのことに関心のある人たちの会として、やすらぎ福祉会を発足し、同年10月には「障害のある人たちの働く場」「憩いの場」として、やすらぎハウスが開所されました。
 2006年4月には障害者自立支援法に基づく「就労継続支援B型」の事業に移行しました。しかし、利用者の方には利用料が発生し、わずかな工賃の中から負担が必要になりました。ことし4月より市町村ごとに軽減策はとられていますが、まだ厳しい状況です。
 やすらぎハウスも11年目を迎え、今年4月には皆様の温かいご支援ご協力のもと、新事業所を菊陽病院の敷地内に移転し開所することができました。
 新しい事業所では、作業部門を食品班、売店班、農業班と3部門に分け・・・

食品班・・・週4日たこ焼き、お菓子作り
        たこ焼き1P 300円、お菓子各150円で店頭販売を行っております。7月より喫茶部門も始める予定です。

売店班・・・菊陽病院内の売店で主に接客業

農耕班・・・野菜作り、収穫作業、洗車作業

 などを、月曜〜金曜日まで行っており、利用者の方が希望される部門で1日平均15〜17名の方が頑張っておられます。
 やすらぎハウスを利用される目的は様々ですが、これからも利用者(仲間)の方を中心(主役)に事業展開をやっていきたいと思っております。
 今後とも皆様のご支援、ご協力の程よろしくお願いいたします。


372号 2007年7月22日

(62)やすらぎファーム(サン・グリーン・ポレポレ・オーパ)だより@ 農業班担当 飯川修二

 今回、やすらぎハウス農業班で働く障害者の人の、働く喜びや収穫の喜びなどを、指導員の方に書いてもらいました。

 

 やすらぎハウスでは、昨年10月から就労継続支援B型事業所としてスタートし、農業班を新設しました。菊陽病院敷地内の畑をお借りして、毎日汗とドロにまみれて頑張っています。当初は荒れていた畑を開墾することから始めました。背丈以上に伸びた雑草や、地面を這うように生えるカズラに悩まされながら、農業班の活動に参加されている利用者の力によってみるみる畑らしくなっていきました。
 土の力、植物の力ってすごい。根拠はないけれど自然の力はすごいなーって畑にいるとよく感じます。利用されている仲間も土を作って、野菜を作る過程で力強くなっていっています。土の中に手を入れるととてもあったかいんです。
 春になるといろいろな野菜ができるようになりました。これまでには、ほうれん草、玉ねぎ、スナックエンドウ、レタス、小松菜、チンゲン菜、ジャガイモ、オクラ、なす、ピーマン、キャベツ、大根などを作ってきました。収穫の喜びを感じ、また収穫した野菜を販売し、収益を得たことも大きな力となっています。もちろん、失敗した野菜もいくつかあります。毎日が勉強の連続です。
 さて、ここ最近の農業班の状況ですが、夏に入って猛威をふるう雑草との戦いに明け暮れる毎日です。でも、私たちは畑とともに楽しんでいます。これからも、やすらぎの仲間の汗と笑顔ですてきな時間を作っていこうと思っています。
 次回は、新築したやすらぎハウスや、畑、仲間のみなさんの写真を添えて紹介します。


376号 2007年8月26日

(63)やすらぎファーム(サン・グリーン・ポレポレ・オーパ)だよりA 農業班担当 飯川修二

 前回に引き続き「やすらぎファーム」よりの原稿を寄せてもらいました。障害者の人の働きが目に見えるようです。その働きが報われる社会になって欲しいものです。

    
オクラの花と農場での作業の様子

 暑い日が続いていますね。やすらぎファームでは毎日、汗をびっしょりかきながら畑で頑張っています。暑さなんかには負けないぞ、と張り切ってまいりましたが、正直なところ利用されている仲間もスタッフも、少しバテ気味です。
 最近の収穫物はオクラ・ピーマン・ナス・ニンジン・しそ・インゲンなど。苦労してできた野菜で喜びもひとしお。土・草・虫・鳥・人といろいろな力が働いて畑には幸せがいっぱいです。そうそう、中でもオクラの花(写真)がこんなにも美しく可憐だとは知りませんでした。
 ここ最近の農業班のヒット商品に“しそジュース”があります。500ml、200円で販売中。2倍〜5倍に薄めて冷やして飲むと、そこにはさわやかな風が吹いてきます。身体にもとてもいいですよ。
 やすらぎハウスは、今年の4月、菊陽病院入り口に引っ越してきました。新築した建物はとってもかわいいですよ。農業班の他に、たこ焼き・お菓子・惣菜を製造販売する食料班と、菊陽病院内の売店(やすらぎショップフレンズ)があります。近くにお寄りの際は、ぜひ遊びに来てください。


380号 2007年9月23日

(64)虐待

 私たちの生活の中で「虐待」や「自殺」の文字を多く見たり、言葉で聴く事が日常茶飯事になっております。ニュース報道によると自殺者が年間3万人を超えることが数年続いています。原因もいろいろあることと思いますが、世の中がそれだけ住みにくくなっていると思われますし、異常なことであることは確かです。また、最近のニュースの中で「虐待」を拾ってみてもびっくりするほどです。それも家庭では親による子どもへの虐待、施設内では指導的立場の人による性的、身体的、心理的虐待が後を絶ちません。今年の5月、神奈川県で生後5ヶ月の子どもを「高い高い」のやりすぎで死亡させた父親が逮捕。同じ5月に3歳の長男を虐待したと母と養父が逮捕。理由は「言うことを聞かないので、しつけのために5分か10分殴ったり蹴ったりした」といいます。
 厚生労働省の調べでも2005年児童虐待で死亡した子どもが51例あったそうです。2006年度に全国の児童相談所が対応した虐待の件数は過去最高だった 2005年度よりも3000件近く増え、37,343件に上ったと報道されています。
 高齢者への施設内での身体的拘束も減ったとはいえ、まだあるそうです。それも専門職(スタッフ)による虐待がもっとも問題になっているとのことです。
 また、障害者施設内でも利用者への虐待も報道されています。昨年9月鹿児島のある知的障害者厚生施設で、少女(当時17歳)へのわいせつ行為をしたとして元理事が逮捕されました。また、19歳の女性利用者を強姦したと再逮捕、起訴。同じ鹿児島県内では、2003年に別の知的障害者厚生施設の施設長が入所者を柱にロープで縛り付け、セカンドバッグで顔を殴ったり、利用者や女性職員の背中を杖で殴ったとして実刑判決が確定したそうです。
 こういう事例は私たちの遠い所であっていることとは思われません。あざを作って帰ったりしたことはありませんか。いつもの行動や言葉づかいが変わったことはありませんか。指導すべき立場の理事や施設長が虐待する側にまわったりすることは許されない行動です。
 子どもも高齢者も障害者も人格のあるひとりの人間なのです。虐待などない世の中にするために皆で努力、協力をしようではありませんか。


385号 2007年10月28日

(65)つくしんぼ懇親会 坂本静代

 9月23日(日)に“つくしんぼ懇親会”(意見交換会)の中で発言された内容に少し書き加えて書いてもらったものです。

 

 いろいろな事情で、のびのびになっていたひざの手術を受けるため、初めて20日ほど家を留守にしました。まず最初に思ったのは、障害のある息子のことでした。いろんな経験をさせてきたつもりですが、できないことも多々あります。私が居ない間大丈夫かなと心配ではありましたが、家族会議の結果、毎日の弁当は父親が作る、出かけるまで準備は紙に書いて壁に貼り、必ず確認する。週1回会社に提出するプリントは、病院に持ってきて私と書くと決めました。作業着のアイロン掛けは、練習しましたが難しく、娘に頼みました。会社の方にも連絡して、何かあったときの対応などもお願いしました。18日後無事退院しましたが、家の方は大変だったようです。
 毎年、小学校の夏休みには孫(娘の子ども)が来ます。今年も小4の女の子と小1の男の子が来ました。ふたりとも、優しくてよく遊んでくれるおじちゃん(息子)が好きです。息子も、とても可愛がります。私が入院している間、孫たちも家の掃除などを手伝ってくれたようです。
 ある日、孫娘が私に
 「じいちゃんとばあちゃんが死んだら、おじちゃんはどこに住むの?誰と一緒に暮らすの?」と聞いてきました。突然の質問だったので、ちょっと吃驚しました。
 「住むのは、ずっとここだと思うけど誰と暮らすのかなあ、あなたが一緒に住んでくれる?」冗談ぽく言ってみました。
孫は少し考えて
「大きくなってみないと、わかんない」と答えました。
「そうだよね、わかんないよね」
 私も想像ができなくてわかりません。でも孫娘の思いがけない言葉で、いろいろ考えさせられました。息子の生まれた35年前と比べたら、今は障害者にとっても理解ある社会になってきたと思います。しかし、10年後20年後を考えると、不安なことだらけです。これから、何をすればよいのか、どう行動したらよいのか、まだまだ考えることは多そうです。


389号 2007年11月25日

(66)「すぎなみフェスタ」での出会い@

 秋には毎年いろいろな催しや行事が盛りだくさんに行われるのは世の常のようです。私たち障害児者の家族にとっても例外ではありません。この秋もそうでした。菊陽町文化祭、障害者音楽祭、健康ウォーク、特別支援学校や障害者施設での文化祭などなど、直美も仲間やボランティア、先生と母親とのフォークダンスの披露などの出番いっぱいでした。その中でも11月10日さんさん公園で行われた“すぎなみフェスタ”での「出会い」「ふれあい」が私たち家族にとっても忘れられない日になるのではと思っています。すぎなみフェスタには菊陽町手をつなぐ心障者の会(つくしんぼ)も会の活動の一環として、また会の活動資金の捻出のためにもリサイクルバザーを出店しています。そんな中、今年も新しい人や懐かしい人との出会い、ふれあいがありました。
 ダウン症の娘、直美(28歳)が通学していた菊陽中部小学校でお世話になった、たくさんの先生方のうちの3人の先生との出会いもそうです。
 1人は岡田郁代先生です。当時は親学級の担任の先生でした。小学3、4年生の頃の学習の中で、同級生の1人ひとりの良いところをクラス全員に短冊のようなものに書かされたことがありました。直美の良いところもクラスの生徒たちが書いてくれました。

●直美ちゃんはやさしい心を持ち、ケンカのときはやめてよといったりするから、
  いい心を持ってすばらしいと思います(男)
●直美さんはとてもすなおで、他の人にもやさしいと思います(女)
●直美さんは何でもさいごまでやりとおすので、すばらしいと思う(女)
●いじわるされてもがまんするからえらいと思った(男)
●わらった時、かわいいところといつまでもがんばることです(女)
●すなおでうそをつかない(男)

 など、直美を見た同級生の感想がたくさん書かれていました。
 岡田先生と久しぶりに会い「直美ちゃん、久しぶり、大きくなったね。元気だった?」「元気です。今は熊本菊陽学園に行っています」精いっぱい抱き合いながら、直美はうっすら涙を浮かべていました。そういう姿を見て、私たち夫婦もジーンとこみ上げてくるものがありました。
 2人の先生との出会いについては次回に書きます。


393号 2007年12月23日

(67)「すぎなみフェスタ」での出会いA

 前回、今年の“すぎなみフェスタ”で出会った、娘 直美の菊陽中部小学校時代の先生方のことを書きましたが、今回は2人の先生のことを書いてみたいと思います。
 すぎなみフェスタで出会った2人目の先生は冨田 欣先生です。眼鏡越しの笑顔がとっても優しく、穏やかな感じの先生です。直美と先生とは今でも年賀状のやり取りを続けています。数年前の12月に喪中のはがきが届いてからというものは、冨田先生の話が出ると「先生のおばあちゃん、亡くなられたもんね」と言って悲しい顔をする直美です。
 私も本屋さんで何度か会ったことがありますがそのたびに「直美ちゃん元気ですか?菊陽学園にまだ通っていますか?」と気にかけてもらって嬉しく思っています。
 すぎなみフェスタで出会い直美も笑顔いっぱいでいろいろなことを話していました。先生も笑顔で答えていらっしゃる様子でした。
 3人目に出会った先生は林 紀行先生です。先生にも直美と同じダウン症の娘さんがおられ、小さいころから小鳩会(現在は日本ダウン症協会)の療育訓練や小鳩会の行事の中でいろいろ家族同士の行き来やおつきあいもあり、お互いにダウン症のことや障害のことについて語り合ってきましたし、いろいろ教えて頂きました。
 林先生の娘さんの郁子さんが最近、中国で開かれた知的障害者のスポーツ大会“スペシャルオリンピツクス世界大会”に日本代表の選手として出場したことは記憶に新しいことです。熊本でも体操やボウリングで活動している様子です。
 娘 直美が、バザー用品の販売をしながら、机から身を乗り出して笑顔で林先生とも話をしている場面が印象的でした。
 今年のすぎなみフェスタで、娘 直美と3人の先生方との出会いは私たち親にとっても嬉しいものでしたし、懐かしい先生との出会いでした。笑顔で話したり、うっすらと涙を浮かべながら、話をしている姿を見ると、私たちも目に熱いものが込み上げてきました。
 他にも小学校の同級生のお父さんやお母さんからも、また、知っている人たちにも声を掛けられ、楽しそうに話をしていました。私たち親にもかけがえのない一日でした。これからもいろんな人たちとの出会いやふれあいを大切にしていきたいと思います。直美の発達の可能性を信じながら。


397号 2008年1月27日

(68)見直して!「障害者自立支援法」@

 2005年10月31日、国会で障害者自立支援法が可決、成立し、翌2006年4月1日に一部施行され、10月1日から本格的に実施されました。
 3障害(身体・知的・精神)が、法的に一元化されるという評価の部分はあるものの、多くの障害者団体からは、早くから立場の違いを超えて結束し「私たちをぬきに、私たちのことを決めないで!」「障害者の自立とはどういう意味でしょうか。この法律は返答に困るほど、おかしなことばかり」「障害者ばかりの問題でなく、人が人として地域で“ともに生きる”と言うことはどんなことでしょうか」などと、拙速な法案可決に反対する全国的な運動を展開してきました。私たち保護者をはじめ、施設事業者側も署名運動を大々的に取り組みました。
 その運動は法成立後もとどまることなく続き、法施行後の2006年12月、施行されたばかりの法案について国会で集中審議され、年末には新たなる利用減免などの措置が決められ、2007年4月より実施されました。
 2007年10月30日、東京で行われた「今こそ変えよう“障害者自立支援法”」10・30全国大フォーラムには熊本をはじめ、全国各地から6500人がつめかけ、この法律の撤回を強く求めました。すべての政党から参加がありましたが、すべての政党が何らかの改善策を講じる必要性を述べ、この法案を提出した与党も含め、この法律が「すばらしいもの」と主張した政党はなかったそうです。この大フォーラムの様子は新聞やテレビで大きく報じられ、ご覧になった方も多く、記憶に新しいものと思います。
 その後も利用料の軽減措置などの見直しが行われておりますが、多くの問題点は残っています。

 次回からこの「障害者自立支援法」の法案の根幹をなすものであるとともに、この法案の中身の問題点でもあると思われる

  @応益負担の原則

  A障害者程度区分認定

  B施設、事業者への影響

などについて、考えてみたいと思います。


401号 2008年2月24日

(69)見直して!「障害者自立支援法」A

 2005年10月の国会で「障害者自立支援法」が可決、成立。翌2006年4月一部施行され、10月から本格的に実施されたことは前号でも書きました。また、いくつかの問題点も指摘し、軽減策を含んだ見直しも行われてきました。
 しかし、この法律は出発のときからいろんな問題点を抱え込んでいました。そのひとつが「応益負担(サービス利用にかかる総経費の一定割合つまり1割を負担することです。すでに介護保険では1割負担が導入されていました)の導入です。費用の負担ができない人はサービスの利用ができません。重度であればある程、負担額が増えます。
 「障がい者の福祉、医療サービスに重い自己負担を求める応益負担はやめてください」と全国1900の障がい者施設や作業所で作る「きょうされん」をはじめ、いくつもの団体が応益負担撤回など障害者自立支援法の見直しを求めて行動を起こしました。署名運動でも声を出しました。今も続いています。
 同法施工後、約40件にわたる障がい者、家族の心中事件がおきている実態も報告されました。心中とまでは行かなくても障がい者や家族に大きな不安を与えています。つい先日、2月12日NHKテレビの「クマロク!」で 障害者“自立支援”法施行2年苦悩の現実 と題して特集があり、ご覧になった方もいらっしゃると思います。熊本市内の重度の障がい者の1家族が紹介されていました。私たちも知っている家族でした。月1万円の工賃に対して、利用料を1日460円支払い、食事も実費負担です。負担金を減らすために利用日数も減らすことになります。「家庭に居ると不安とストレスで「生きる気力」がなくなり、追い詰められているときには家庭では支えられない」と。「また、今までの生活の中で子どもの首に手をやりそうになったこともある」と。
 全国の集りの中で「作業所に行けば行くほど金がかかる。普通の人はお金を払って会社に行きますか。何をするにもお金がかかるのは障がい者だからですか」と問いかけていました。
 何度も書いてきました。軽減策や緊急措置はとられてきました。しかし、応益負担は障がいが重く、より多くの福祉サービスを必要とする人ほど高負担を強いられる制度です。この法律の最大の問題点でもあります。この応益負担の廃止、撤回がされない限り障害者“自立支援”法の抜本的見直しにはならないと考えます。


405号 2008年3月23日

(70)見直して!「障害者自立支援法」B

 今回は「障害者程度区分認定」と「施設に与える影響」について考えてみたいと思います。
 障害者区分認定は、障がいの「重い」「軽い」をコンピューターなどで評価できるという考え方に立って、福祉サービスの利用可能性を探るというものです。100項目以上の設問がありますが、内容は介護保険制度における「要介護度」の区分に利用されている項目が多数を占め「知的や精神障害者の人たちには当てはまらない」との声が多く「その障害者の実態に合った項目の見直しを」との要望があちこちから強く出されています。程度区分認定によって受けるサービスが制限されるので、施設に入所している人からは「私たちはここから出ていかにゃならんとですか?施設にゃおれんとですか?」「年寄りになったら、おれたちゃどぎゃんすっとよかっですか?」という声がたくさん上がっています。地域で生活することは良いことかも知れませんが、収入を得るための仕事はありますか?生活をするための住まいはどうなるんですか?そういう地域で生活するための基盤整備がないままでは、不安になるのは当然のことと思いますし、基盤整備が先ではないでしょうか。国は項目の見直しも考えているということですが、全容が明らかになるのはいつのことでしょうか。
 また、制度変更に加えて事業所に支払われる国や自治体からの自立支援給付の支給が「月割り」から「日割り」に変わり、その上に支給額が大幅に減った事業所もあり、経営に悩む事業者も少なくありません。熊本日日新聞の報道でも「職員の給与が少なくなった」「職員が辞めることにもつながる。臨時やパートで綱渡りの職員体制では利用者に影響が出てくることが心配だ」との声もあります。日割りになり給与は減り、仕事量は増大することばかりです。「日割り」を「月割り」に戻すことなども含めて問題は多岐にわたりますが、障害者自立支援法の抜本的見直しを早急に願いたいものです。

おわりに
 今までに月1回平均、70回にわたって私や会員の人たちが障がい者福祉について連載してきましたが、今回で一応終わります。つたない文章を読んでいただいた方たちに感謝するとともに、長期間、貴重なスペースを提供していただいた「ワンネス」の皆さんに感謝します。

 障がい者や高齢者が安心して暮らせる「まちづくり」のために、私たちも頑張ります。