三里木区 たわらや酒店 宇野功一
(150)日本最北端の酒蔵
国稀(くにまれ)酒造訪問記 その2
◆日本海沿いに栄えた日本酒蔵 日本酒文化、北へ北へ…
北海道の歴史について簡単に書きます。北海道はもともとアイヌ民族の大地でした。江戸時代になり、北前船で本州との物流が盛んになり、北海道からは昆布や鮭が本州に送られ、北海道にはさまざまな生活物資が入ってきました。北海道には日本酒をつくる酒蔵もありませんし、お米をつくる田んぼもありませんでした。
北海道で日本酒がつくられるようになったのは、明治維新後です。
國稀酒造の本間家は、もともと新潟佐渡で仕立て屋を営んでいました。幕末・嘉永3(1849)年、本間家三男として生まれた本間泰蔵は、ニシン漁でにぎわう北海道増毛の地にたびたび訪れ、商いを始めます。明治8(1875)年に増毛に移り住み、呉服屋を創業したそうです。泰蔵25歳でした。
明治8年と言いますと、佐賀県で江藤新平らの佐賀の乱が勃発した年であります。江戸時代の武士階級の方々が新政府の政治に不満を持ち政情不安定な頃です。この年5月7日に、駐露特命全権公使・榎本武揚がロシアのサンクトペテルブルグ(当時の首都)において、千島・樺太交換条約を結び、ロシアと日本の国境線が確定した年です。その中で、択捉・国後・歯舞・色丹は北海道付属の島と提起。本来ならば、樺太と千島列島を交換したのですから、カムチャツカ半島の占守(しゅむしゅ)島までが日本だと言いたいのですが…。
北海道には日本酒がありませんから、本州から日本酒を船で運ばねばなりません。年々、ニシン漁は栄え、本州から移住する日本人でにぎわいを増します。泰蔵は明治15(1882)年に日本酒をつくることを決意。呉服問屋の敷地内に、小さな酒蔵を建て「丸一本間」の銘柄で細々と日本酒づくりを開始します。本間家はもともと新潟佐渡の出であり、佐渡流儀の酒づくりを模倣して創業をスタートしたといいます。
ニシン漁はさらに活況を呈します。ニシンの漁民だけでなく、さまざまな商品を商う商人、北前船で物流を担う海運業者等で、丸一本間の酒は足りなくなります。創業から20年後の明治35(1902)年に、現在の酒蔵が完成して、増産体制で日本酒づくりを再スタートしました。この建物は日本海沿いの酒蔵に多くみられる建築様式です。お店が街道沿いにあり、帳場の奥に蔵元の居住屋敷があり、帳場から奥に通路が走り、奥には日本酒を仕込む酒蔵がある、といった間取りを踏襲しており、まさに日本海沿いの酒蔵建築様式です。次回につづきます。
追伸:平成時代の原稿はこれが最後。次回からは『令和』。なんだか感慨深いものがありますね。
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