222号 2004年7月4日

(1)「忠臣蔵」ゆかりの三里木櫨(はぜ)並木

 

 元禄15年12月(1702年)、吉良邸へ討ち入り主君の仇を打った赤穂浪士47人は、それぞれ3大名の屋敷へお預けとなりました。
  熊本藩主、細川家江戸屋敷には大石内蔵助良雄以下17名が預けられ翌春2月4日の切腹まで接待を受けました。このあたたかい待遇に感激した内蔵助は、財源の一助として櫨の栽培を進言しました。

 享保8年(1723年)六代細川宜紀公は櫨苗の仕立てに着手し、藩内のあらゆる空き地(官地)をはじめ、河川の堤防、道路敷の空き地に櫨の栽植を推進しました。
 名君と謳われた八代 重賢公は特に熱心な推進者で、畑地に栽培する者にはこれを免租(免税)として奨励する一方、寛延2年(1749年)には城内に「櫨方(はぜかた)役所(やくしょ)」を置いて櫨の管理運営に当たらせました。宝暦13年(1763年)には高橋町に直営の「製蝋所(せいろうしょ)」を設け、櫨を専売としました。三里木の櫨並木もその名残です。

 

現在の櫨並木

(旧57号線沿い菊陽ボウル前にて撮影)

231号 2004年9月12日

(2)戸次の大助どん

 昔々、日暮山の西のふもとに、戸次というところがあったてな・・・。それはそれは淋しいところじゃった。この村になァ、大助どんという人の好い夫婦が住んでおった。根が大変な楽天家で、貧乏と仲良う暮しておった。
  ある日のこと、大助どんが白川に下りて見ると、鴨の群れが鍋の弦のように曲がって白川につかっとった。これを見た大助どんは「しめた!」とばかり鉄砲を鍋の弦のように踏んまげて、ズドンと一発ぶっ放した。すると弾丸は居並ぶ鴨の頭を次々に打ち抜いて、勢いあまった鉄砲の弾丸は向こう岸で昼寝をしていた狸の頭まで打ち抜いてしもうた。さあ大変!苦しまぎれの狸は、やたらと土手をひっかきまわして息絶えた。
  大助どんは、やおら岸につないであったいかだにのって向こう岸へ着いてみると、狸がひっかきまわした土手の面からは、ひとかかえもある山芋がにょっきり顔をのぞかせとった。大助どんは「こりゃあ、大猟じゃわい」と言いながら、そこに茂っていた茅の葉に包んで帰ろうと茅をつかみザックと切り取ってみると、これまたビックリ。そこに潜んでいたキジの雁首も一緒に切り取ってしまった。大助どんは「運の悪いキジじゃわい」と言いながらキジを持ち上げてみたら、またまたビックリ。キジの下からは、卵が13個も出てきおった。
  大助どんはにこにこ顔で獲物を拾い集めると、鼻唄で元の岸へ戻って来た。そして、川下の方をみると、さっきの鴨の一群はみんな仲良く大助どんの梁(やな)に落ちていたんじゃと。
  人の好い大助どん!天の恵みに感謝しつつ、真正直に生きる大助どん!きっと天地の神様がごほうびとしてくださったんじゃろう・・・。と、みんなはうらやましがったんじゃと。
(文・町史編纂集より  写真・人形劇団ぶっくる)


233号 2004年9月26日

(3)玄蕃(げんば)橋の由来

 

 

 

 馬場地区内にある玄蕃橋は、1570年(今から434年前)に大原郷(今の入道水)の将、古荘玄蕃頭(げんばのかみ)が合志本城への往来のためにこの石橋を架けました。以来、この名前は今日まで生き続けています。この橋を境にして川の名前が上井手と堀川に分けられます。


242号 2004年1月28日

(4)お法使まつり

 

 毎年10月30日に行われる津森神宮まつりで、御神体を載せたみこしを豪快に放り投げます。町内では戸次・馬場楠・曲手・辛川と益城町の5地区、西原村の3地区の12地区を1年ごとに巡回します。
  今年は、曲手区から辛川区へ御神体が受け渡されました。


248号 2005年1月16日

(5)放牛地蔵 〜新町〜

 むかしむかし(1685年)熊本の城下町に貧しい鍛冶屋の親子が住んでおったそうな。父親の七左衛門は大変な酒好きで、暮らしは楽にはならず、せがれの七助が野菜売りなどをして過ごしておったそうな。
 今日もまた、七左衛門は酒を買ってくるように言いつけた。だが、酒屋にはツケがたくさんたまっておってな、七助は気が重く戸口のところでグズグズしていると、七左衛門はいきなり「火吹き竹」を投げつけたんじゃと。ところが運悪く前を通りかかったお侍の大矢野源左衛門の顔面に当たってしもうた・・。さぁ大変!カンカンに怒ったお侍は、懸命に謝る七左衛門を容赦なく無礼打ちにしてしもうたんや。
 せがれの七助はひとえに己の不孝のせいだと嘆き、出家して名を「放牛」と改め一心に父親の供養に努めたんじゃと。そして、30余年の修業の末に「今後10年間のうちに百体の石仏を建て、父の菩提を弔おう」と、大願をたてたんじゃ。
 放牛はあちこちの村で托鉢をしてはお布施を集め、コツコツとお地蔵さんを建てていった。田迎小前を一体目として、菊陽町の新町にある開光寺内の放牛地蔵が66体目なんじゃ。そして、大願成就の百体目が熊本市池田にある往生院にあるんじゃと。その表情には悟りをひらいた安らぎさえ感じられるんじゃ。
 この地蔵さんの特徴はな、光背に放牛名と何体目かが銘記されすぐわかる。歯痛、母乳の出を良くしてくれるお地蔵様として親しまれておるんじゃ。放牛さんはお慈悲深いお地蔵様。是非一度お参りしてはいかがかな。

(資料 菊陽町史編纂集より)

 

 


252号 20085年2月136日

(6)今石城跡

 

 

 

 合志城南方の防衛の拠点として、石原狩野介吉利(いしはらかのうのすけよしとし)が居住した今石城の跡。1585年島津氏の侵攻を受けて落城しました。現在は、今石神社となっています。


254号 2005年2月27日

(7)山陽外史

 文政元年に肥後を訪れた頼山陽が、豊後竹田に向かう途中、杉並木の景観に感動して詠んだ詩です。
  記念碑として旧57号線沿いの現在地に残されました。

大道平々砥如  大道(だいどう)平々(へいへい)ともしかず

熊城東去総青蕪  熊城東(ゆうじょうひがし)に去(さ)ればすべて青蕪(しょうぶ)

老杉路爽他樹無缺處時々阿蘇見  老杉路(ろうさんみち)をはさんで他樹(ほたじゅ)無(な)くかくるところ時々(ときどき)阿(あ)蘇(そ)を見(み)る

山陽外史(頼山陽)文政元年(1818年)


4267号 2005年6月5日

(8)津久礼とは

 菊陽町の大字地名のひとつに、津久礼があります。東は中部小学校西側から、西は八久保、花立まで東西に長い地域です。
 近年、県住宅公社より光の森団地が造成され今県下で最も発展中で元気のある町です。
 この地名のいわれは菊陽史によれば建磐竜命(たけいわたつみのみこと)が外輪山の立野を蹴破られたときに流れ出た土塊(つちくれ)がその地に多くあったところから「つちくれ」の中を略して「つくれ」になった説。そして景行天皇12年、天皇が熊襲征伐の帰りこの地に寄られたが、行くべき道がなかったので大岩に立たれ「よくみちをつくれ」と言われたことから「つくれ」となった説などがあります。そして、天皇がお立ちになった大岩が、今石神社の御神体であり、地元の人からは「立石さん」の名で親しみ祀られています。
 この地には縄文〜古墳時代の六地蔵跡、梅ノ木遺跡、今石横穴群、藩政下の八ヶ村地筒と御家中地筒、豊後街道杉並木と頼三陽詩碑、天草島民のため一命をおとして石高半減を直訴された天草代官鈴木重成(天草には鈴木神社があります)子孫の上津久礼在宅(知行取り)が熊本藩侍帳に見られます。

(編集 青葉台区 坂本義敬さん )

268号 2005年6月12日

(9)今石城とは

 今石城は、菊陽町最古の養老2年(718年)に創建とされる今石神社一帯と後方の台地(現青葉台)にあったとされる城で、戦国末期の合志氏全盛期、合志城南方の防衛拠点でした。城主は石原狩野介吉利(かのうのすけよしとし)。またその西300mに石坂石見守盛高(いわみのかみもりたか)を城主とする石坂城がありました。
 当時の肥後は、名門菊池氏没落の後には阿蘇氏をはじめ、国衆52人がいました。特に菊池の重臣同士、隈部・城・赤星3氏の争いや、諸豪族間は争乱の連続でしたが、いずれも戦国大名といわれるほどの勢力を得るには至りませんでした。この間、肥後は豊後の大友・薩摩の島津、そして頓(とみ)に勢力を高めた肥前の竜造寺、三つ巴の戦国争覇の草刈場と化したのです。
 一方合志氏は島津氏に背いたため、隈本城主、城 越前守ほか肥北の初豪を手引きとして、怒濤の如く島津の大軍が侵攻してきました。合志氏は戦わずして薩軍に降るを潔(いさぎよ)しとせず、華々しく戦うこととなりました。
 「陣内志談」の中に在る合薩戦記によると、天正13年(1585年)秋、薩摩の島津勢を迎えた合志氏は、今石城に石原 狩野介を総大将として1,500人が立てこもり迎え撃つこととなりました。薩摩勢の大将は勇猛で知られた川上左京で、2,500人の兵を率いて白川をはさんで相対しました。9月2日から3日にかけて死闘を繰り返しましたが、敵の計略に陥り、全滅したと言われています。今石城主石原 狩野介の墓は、白川の対岸、熊本市石原町に自然石の墓として建っています。なお、小山諏訪神社祠官(しかん)は石原氏で、祠官としては天正の頃までさかのぼります。先祖である狩野介の墓を、毎月1日と15日に榊(さかき)を供えて供養されています。
  私たちの住む菊陽町及びその周辺には、興味津々(きょうみしんしん)たる郷土史があります。

(編集 青葉台区 坂本義敬さん)

275号 2005年7月31日

(10)鉄砲小路と地筒

 祝祭日、鉄砲小路を通るときれいに手入れされた生垣の中、軒並みに国旗が掲げられています。脈々と続く士道精神に接して、改めて鉄砲小路創設の由来を思い知らされます。
  細川氏入国は寛永9年12月(1632年)であり、その後領内を巡視し、それぞれ土地を選んで屯耕の制を考えられました。寛永11年〜13年までに、いわゆる地筒(じづつ)の者(地鉄砲)を召し集め、土着させました。これが肥後藩における鉄砲地筒(屯田兵)の始まりです。
 寛永12年1月(1635年)鉄砲小路が創設されたのは大津原において、当地が広い荒野で、熊本城より鬼門にあたり、さらに豊後表から向かう軍陣の場合、伏兵の心配もありました。故に、荒野を自ら開いて禄(ろく)とする地筒の者を仕立て軍用防御の備えにと100人程度集める予定がようやく91人取り立てになりました。
  鉄砲小路の特徴としては、東西に細長い集落で創設の道幅2間約3.7m(現在拡張されて、歩道を含めて約8.6m)で、この道路の北側に15間(約27m)の間口で、奥行き40間(約73m)の屋敷が並んでいます。
  屋敷の横の境界には用水が通っており、隣の家に行く時にこの用水を跨(また)いでは行けませんでした。必ず正面の入口から行くしきたりになっていました。肥後藩地筒の仕立をみますと、寛永12年には鉄砲小路の後に保田窪地筒が仕立られ、寛永13年には花立、黒石ら、新地鉄砲衆が新設されました。
  ちなみに八ヶ所地筒とは、菊陽町の鉄砲小路と花立、他は兎谷、麻生田、楡木、黒石、保田窪、平山(平山は保田窪から分出された遠見であり、平山とありますがその所在地は松尾町平山と河内町面木までまたがっています)です。
  地筒は平時にあっては農耕に従事しながら、月5〜10日城内に出仕して、砲術、剣術などの稽古に励み、緊急な戦時体制化には出兵しました。島原の乱には56人が鉄砲組として出陣し、さらに慶応4年鳥羽・伏見戦には101人が動員されました。 地筒の先祖は加藤家などの遺臣といわれています。

(編集 青葉台区 坂本義敬さん)

287号 2005年10月30日

(11)オホシマツリ

 白川左岸、菊陽南小校区の4ヶ所の集落には12年に1度巡ってくるオホシマツリがあります。今年はちょうど辛川地区から益城町平田地区へ受け渡しの年で、次回菊陽町戸次には8年後の平成25年に受け渡しされます。
  オホシマツリは、10月30・31日に行われる津森宮の祭りで、オホシサンと呼ばれる御神体をひとつのムラで1年間祀ってから次のムラへ送るものです。オホシサンは12年で一巡し、その順路は高遊原台地の周囲を左回りに回ります。
  オホシサンの回るムラは次のとおり。
 益城町(上益城郡)平田下、平田上、田原、小谷、杉堂。西原村(阿蘇郡)瓜生迫、秋田・土林(2ムラで1年)、田中・門出・星田(3ムラで1年)。菊陽町 戸次、馬場楠、曲手、辛川(道明、井口は辛川のうちであったが行政区として独立)以上の順に回ります。
 オホシサンが平田から田原・小谷・杉堂・瓜生迫・秋田・土林を経て田中・門出・星田に至る木山川沿いのムラを回る期間のことをノボリと呼び、戸次から馬場楠・曲手を経て辛川に至る白川沿いのムラを回る期間をクダリと呼びます。
  神輿は、普段は津森宮に保管されており、オホシマツリの時には、渡すムラのオカリヤまで運ばれ、宮司の手によって神体が込められた後、渡すムラの消防団員にかつがれてウケワタシバまで運ばれます。そこからは受け取る集落の消防団員によってそのムラのオカリヤまで運ばれ、そこで再び宮司の手によって神体がオカリヤに移されます。神輿がウケワタシバと幾つかのオヤスミバに着くたびに神事が行われ、その区間では地面に落とされたり青竹で叩かれたりします。オホシサンは非常なアラガミサンであり、静かに行列していくことが嫌いなので、神輿を田に落としたり、青竹で叩いたりすると喜ばれるようです。
  オホシマツリの時にやって来る客を、オホシの客と称し、自分のムラでオホシマツリがある時には、親戚や親しい友人を招待しました。近くの者は訪ねて行ったり会ったついでに招き、遠くの者は葉書などで招待しました。一軒あたり80人以上来た例もありました。
  このように珍しい伝統神事は地域の誇りであり、マツリを行う人、見物する人双方の心を癒し活力の源泉となります。

(注)御法使さんと御星さん両者が合体してオホシさんとなっている。
    合体については菊陽町史P492〜495に詳述されている。


301号 2006年2月12日

(12)ふるさと探訪

 私たちが住んでいる菊陽町・合志町等はかつて、明治29年迄は菊池郡ではなく合志郡と呼ばれていました。合志郡の郡名は、「火の尻の邦小石川郡」から「皮石(かわし)」「加波石(かわし)」となり、その後、奈良時代の和銅6年(西暦713年)「佳字好音(かじこういん)の詔(みことのり)」で合志郡と改称された時に始まります。
 当時の合志郡は、現在の鹿本郡植木町及び旧鹿央町山内地区を含んだ広大な範囲のため平安時代の貞観(じょうかん)2年5月(860年・三代実録)に山本郡に二分されました。このとき阿蘇郡の南郷から瀬田と立野を瀬田浦と称し合志郡に編入しました。
 戦国期には、現熊本市の吉原町・石原町・弓削町・御領町(小山御領・合志町の御領と区別するためこの地名でした)は託麻郡でしたが、詫磨別当の娘を合志蔵人に嫁がせた際、当地を化粧田として合志家に遣(つか)わしたため、合志郡に属したとする伝承を記しています。
 この様な理由もあり、白川を隔て何かと利便性に欠けたので4地区は託麻郡編入を申請し、2年後の明治13年11月託麻郡へ編入しました。逆にその中に囲まれた当時の中江むらは4地区が合志郡であったため、合志郡編入を申請した経緯もあります。
 明治29年(1896年)明治政府は郡制改革を進め、県内では飽田郡と託麻郡が「飽託郡」に、また山鹿郡と山本郡は「鹿本郡」と各郡名の一字を取った郡名となりました。
 合志郡も菊池郡との合併となり、政府に「菊池合志郡」で上申しましたが却下され、更に「菊志郡」として再上申するも許可されず、南北朝期の菊池一族の名を取り「菊池郡」とすべしと決定され、明治29年まで約1183年間続いた合志郡の名は消えました。
 平成6年(1994年)この由緒ある郡名を残すため、当時の住民の思いを考慮し、郡名が消えて100年目に当たる平成7年(1995年)合志町大字上庄・城山に「合志郡記念碑」が完成しました。


312号 2006年4月30日

(13)合志の七水(ななみず)とは

 昔、阿蘇大明神健磐龍命(あそだいみょうじんたけいわたつのみこと)が合志郡の村々を巡見された。ある茅屋(ぼうおく)に立ち寄られ、水を一杯所望されました。主の入道は莚(むしろ)を織り、妻は洗い物をしていましたが、さまざまに精一杯のもてなしをしました。
 そのとき誤って糊の米をこぼしたが明神は両名の心からの奉仕に感心され「ここに田を植えなさい」と杖を立てられるとたちまち水が湧き出ました。これが「柳の堤」です。冷水が湧き出し、苗代の用水や田畑の灌漑などに利用されていました。
 入道のもてなしで、入道が差し出した水も入道の心もさわやかで「気持ちがよいぞ」と賞美されたことから“入道水”といいます。「今ひとつくれないか」とおっしゃるので水を汲みに行ったが、すぐに去られたので、追いかけて御衣を控えて水を差し上げました。この所を“引の水”といいます。
 やがて明神は瀬田と言う里をお通りになって、岩下の水口で御足をお洗いになって、ここでお休みになりました。その水を破子(わりご)の水といいます。
 また平川という所をお通りになると、小川から水を汲む女がいました。
 「その水をひとつくれないか」とおっしゃったのに女は「あげられません」と断ったので、明神はお怒りになって「旅の者に一杯の水も与えないとは、良いか悪いかあとで思い知るであろう」と同じく杖を川の中に立てられました。するとたちまち水は引いてしまい、はるか川の下の方から湧き出ました。この辺りを“透水”(現在の杉水)と名付けました。
 また、阿蘇下野の狩のとき、南山の猪鹿が追われて自然に集り水を飲んだ所があります。この水を“鹿の水”(合志市栄)といいます。大堀木(おぼるけ)村に「二の分」という小村がありました。現在の菊陽台病院のあたりです。ここに大金持ちが住んでおり「二の分長者」と呼ばれていました。その長者は鷲を飼っていました。その鷲が飛んできて翼を休め、水を飲んだ泉が“鷲の水”といいます。
 このような由緒ある入道水、柳水、引の水、破子の水、杉水、鹿の水、鷲の水、を合志の七水といっています。


324号 2006年7月30日

(14)鉄砲小路とは

 

 我が家の敷地内にある粟嶋神社は、私の祖母の話によると、約150年前に宇土の粟嶋神社から御神体を頂きました。私が子どもの頃には、合志の福原や竹迫、大津の室からもお参りに来られ、中にはお百度を踏み、祈願される方もいらっしゃいました。
 数年前の台風で社(やしろ)が壊れたので、昨年11月に新しく建替え、御神体もお色直ししました。

 
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