菊陽町手をつなぐ心障者の会「つくしんぼ」 会長 坂田義美


106号 2002年2月24日

(1)はじめに

 地域にこういう知的障害児者がいるということを知り、親の悩みをいつでも気軽に話せる相手を知り、子どもたちの発達はたとえ遅くとも、お互いに素直に成長を喜び合えることを知り、そして、それぞれが意見を述べ、地域に根ざした会にしようと有志が集まり、菊陽町社会福祉協議会、町福祉課の協力を得て、知的障害児者の親を中心に、菊陽町手をつなぐ心障者の会「つくしんぼ」が結成された。「国連・障害者の10年」(1983年〜1992年の)真っ只中のことでした。

 今年は「アジア太平洋障害者年の10年」(1993年〜2002年)の最後の年に当たっています。振り返れば1981年の国際障害者年。それに続く「国連・障害者の10年」以降、実に20年に及ぶ国際的な障害者の人権保障の呼びかけは、世界各国、日本の障害者対策に大きな変化をもたらしたものと思われます。

 障害児者を見る目、障害児者に対する思いを考え直す機会が多くなり、障害児者や親が少しでも外に出かける機会も多くなり、まだまだとはいえ以前に比べて暮らしやすくなったと思います。

 北欧で生まれたノーマライゼーションの理念が、共通の理念として認識されてきたのではと思います。

 この連載を機に、子どもの成長のこと、学校のこと、ボランティアのこと、障害者列車ひまわり号のこと、医療や制度のこと、仕事のこと、地域で暮らすということ、人権や平和のことなど、課題や意見、具申も含め、私や会員からも意見を発表してもらい、仲間たちの作品も交えたいと思います。

  高齢者や障害児者が暮らしやすい街は健常者にとっても暮らしやすい街だと思います。そういう人に優しい街作りにみんなで努力したいと思います。

110号 2002年3月24日

(2)障害の早期発見と療育@

 「オギャー」という声でこの世の中に姿を見せた子ども。これから数十年に渡るたった一回の長い人生の出発です。

 両親の暖かい愛情に包まれながら日増しに身体も大きくなり、表情も豊かになっていきます。そんな子どもの表情を眺めつつ親は育児書をひもときながら、子どもの一挙手一投足に喜んだり、不安になったりする。

 そしてある時点で「視線が合わない、首が据わらない、なかなか言葉が出ない」など子どもの様子に不安を持つ親もいるのです。

 もし乳幼児の段階で傷害や遅れが見過ごすことなく発見され、きちんと治療や指導がなされていたらと考える方はたくさんおられるのではないでしょうか。

 私たち(つくしんぼ)の会員の中にも同様に考えられた人は多いと思います。私も娘の直美がダウン症と診断を下されるまでの不安。診断後の、大学病院での染色体検査の結果が出るまでの一日一日の長さ。結果がダウン症とわかってからの私たち夫婦のショック。どうしたらいいのだろう。誰に相談したらよいのだろう。悩みの中でダウン症に関する勉強、親の会。(小鳩会)

 そして、障害というものは固定化したものでなく、早期発見、早期療育をすることでどんな障害児でも発達の可能性があることを知り、それを導き出すための過程は長かったかもしれない。その道筋にたどり着かない親もいるかもしれない。

                                           そういう中で、滋賀県大津市では、乳幼児検査、大津1974年方式(大津方式)という独自の早期発見、早期療育のシステムが確立していたのです。就学するまで一貫した体制をとって、検診、発見、対応からもれることを防ぎ、そのことによって疾病や障害の軽症化を目指していたのです。熊本にはきめ細かいシステムや総合療育センター的役割を果たす施設は無かったのです。

115号 2002年4月28日

(3)障害の早期発見と療育A

 娘、直美の誕生が昭和54年7月。県内に知的障害児者のための総合療育センター的機能を持った公共施設が無かった。

 そこで、民間の病院の小児精神科の門をたたいて療育を受けることとなる。その民間の病院にしても、“もうからない”ということで、いくつもあるわけではない。おのずとそういう病院には、知的障害児者だけでなく、身体的ハンディキャップを伴った人たちも訓練に来られる。一週間の内の曜日が決められ、それも一日。そして一日のうち1〜2時間程度であった。

 言語訓練、その子どもに応じた体操、リトミック、お口の体操など。訓練から帰ってからは、恐る恐る我が家での訓練。こういうことの繰り返しが続くことになる。挫折しそうになる親子。嫌がる子ども。 でも、訓練を続けることで、ほんのわずかずつ進歩がある。と言っても目に見えて進歩があるわけではない。障害者とボランティアが一緒になって行われた“こころコンサート”その中で、鈴木健二熊本県立劇場の名誉会長が言われた。

 「あなた方保護者が一日でやれることが、この子どもたちは365日掛かるのですよ」と。

 総合的な療育センターが無いことが親子や家族を悩ませる。そういう中で、医者次第では「長生きできませんよ」とか「歩くことは一生出来ないですよ」と告げられた家族は多いと思います。

 しかし、親子はしっかり頑張ります。たとえ歩みは遅くとも、子どもの発達を信じつつ、親子で励ましあい、家族で励ましあい、そういうハンディを持っている人たちと知り合いになり、お互いが励ましあって生きる。

   そういう中で、市町村の保健婦さんとの結びつきがもっとほしいと思いました。仕事は広範囲にあると思われるが、地域の子どもの検診の結果をいち早く知られる立場から適切な指導、助言、医療機関の紹介名どを含めてサポートしてほしいと思いました。そう思ったのは私たちだけだろうか?否と言いたい。

118号 2002年5月26日

(4)就園・就学@

 障害の早期発見、障害に応じた早期療育に発達の可能性を信じつつ、親も子も模索しながら成長に期待していく。

 療育する場所の少なさ、療育機関の少なさ、適切なアドバイス、サポートをしてくれる機関の少なさに先輩の親、同じ障害を持った親同士の話の中に、明るい希望を見出していくことが多くなる。

 子どもの成長過程で、大きな壁も目の前に立ちはだかる。就園、就学も大きな壁であり、親や行政を悩ます問題です。

 自分の住んでいる地域で、一番近い場所で障害児を受け入れてくれる保育園や小学校がある場合はいい。最近は受け入れてくれる園や小学校も増えてきている。少子化の影響も考えられ、受け入れ可能な保育園が増えてきたにもかかわらず、受け入れを拒否された会員の子どもたちも多い。入園をOKされる場合でも、行政や園へ何度も足を運ばなくてはいけない。

 しかし、受け入れをしてくれた園では、保母さんの優しさで同じ園児たちと仲良く生活をしていくものである。

 直美の場合も同じであった。親も何度も行事の度に足を運ぶ。当時の写真を見ると発表会で衣装を着て、泣きべそをかいている写真。運動会ではみんなと一緒に遊戯をしたり、楽しそうに走っている姿がある。通園も長く歩けないので、母親の自転車に乗せてもらい、喜んで通園していた。

 熊本でも以前に比べて、障害児を受け入れてくれる公立の園も増えてきたが、他見に比べたら、まだ少ないと思われる。

  直美も成長する中で、健常児と一緒にいること、地域の子どもたちと接する喜びを感じられた。年齢が低い程、障害児と健常児が、地域で仲良く出来ているように思われる。とはいうものの、地域での障害児学級の壁には、厚いものがあった。

122号 2002年6月23日

(5)就園・就学A

 親族や家族を悩ます大きな壁。それは就学前に行われる健康診断で何らかの理由で就学指導委員会に判断を任されて、教育委員界との話し合いを進められたときです。養護学校へ行ってほしい、障害児学級へ、もしくは普通学級へ行ってほしいという事で判断が下されるわけですが、親や家族の希望と合致すればいいのですが、往々にして意見の食い違いのあることが多いのです。

 住んでいる校区の小学校への意思が一致したときはいいのですが、子どもの発達に応じた教育を受けたいと思うこと、言葉は悪いかもしれませんが、教室で先生が話されること、子供同士の話もわかりづらいということでお客さん扱いされやすい事もあり、普通学級へとういことは親が望まない場合が多いのです。

 又希望する障害児学級が校区の学校にあればいいのですが・・・。(最近は菊陽町の場合も多くの小学校に障害児学級が出来ています)住んでいる校区の学校に障害児学級が無い場合は違う校区の障害児学級を進められるのです。兄弟姉妹とは別の学校に行かねばならない場合もあるのです。

 親や教育委員会も子育てするのには子どもに即した丁寧な支援が必要だとは思っているわけですが、教育委員会は教職員の配置、障害児のための教室等とそれに伴う財政のことなど解決すべきことも多いようです。親と教育委員界との話し合いは何回も続きます。

   親は是非とも住んでいる校区内に障害児学級をという願いの元、同じような子を持つ父母の集まりやグループ、支援してくれる地域の人たちと連携し、力をあわせ障害児学級の設立の運動、署名や陳情をまずは街に対して行動を起こします。また、県への行動を起こす場合もあります。私たちの住んでいる菊陽町でも、地域の方々の応援を得て署名運動を起こし、障害児学級を実現した人も数名いらっしゃいますし、私も教育委員会へ何度となく足を運びました。仲間との支えあいの中で、子どもだけでなく親たちも発達します。  

 


127号 2002年7月28日

(6)就園・就学B

 就学のことで、娘、直美(現23歳)野場合を少し書いてみましょう。菊陽北小の隣のみどり保育園を無事卒園氏、小学校へ入学。当時、菊陽北小には障害児学級が設置されていませんでした。設置の要請に教育委員会や、北小の現状を見に足を運びました。北小ならば普通学級だけでの生活。教育委員会からは障害児学級を望むならと菊陽中部小を勧められました。障害児学級設置の運動、署名を起こすには街での支援者も知らなかったし、(当時は現在の“つくしんぼ”の存在もありませんでした)また、運動を起こすには機関の短さもありました。結局、私たちは隣の校区の中部小の障害児学級を決めたのです。通学の距離からすれば、北小より少し遠かったのですが。

 中部小へ入学、みどり保育園の仲間や先生方とのお別れ。みんな仲良くしてくれました。お友達もたくさん出来たのですが・・・。集団登校ですので、下原区の人たちとの登校です。下原区までは母親が一緒に、それからは登校班の人たちと一緒です。新しいお友達との出会いの始まりです。光団地から中部小までの通学の中で、何度か座り込んで登校班を困らせ、先生を呼びに言ってくれたお友達も何人もいたことを思い出します。雨、風の日、暑い日、寒い日、頑張って通学しました。下原まで迎えに行く途中。電線にからすや雀が止まっているのを見て、電線の下を通る直美は「からすさん、ウンコをかけないでね」と言って通ったことも思い出されます。

 学校生活では、新しい友達ばかりですので、馴染むまでは時間が掛かりました。学習のほうは、教科により親(原)学級と障害児学級での学習でした。障害児学級では、親学級でついていけない学習や生活指導が行われ、専門の先生がついてくださって「先生が二人」といって喜んでいました。当時、熊本市の親に話をすると親学級と障害児学級の行ったり来たりの学習は羨ましがられたほどでした。障害児学級の生活だけの様子でした。学校での生活については、またの機会にと思いますが、下原区の人たちにはお友達をはじめ、地域の人に感謝しています。今でも顔見知りの人に会ったり、お店の人に会うと「直美ちゃん元気ですか?大きくなられたでしょう」と声をかけてもらえます。

   本当にありがたいことだと思っています。親も子どもも新しいお友達が出来たのです。

134号 2002年9月22日

(7)手記@ 〜地域に根ざして〜 梅田弘之

 今回と次回は、障害児学級新設や再増設についてのつくしんぼ会員の手記を掲載します。

 

 私の次男は、2歳半のときに自閉症と診断されました。あまりにも重い診断を簡単に聞かされましたので、当初は何かの間違いではないかと思いました。いいえ、そう思いたかったのかもしれません。しかし、日々次男と接していくうちに、障害は現実のものとなっていきました。

 就学を翌年に控え、長男の通う地域の小学校で次男の発達に応じた教育を受けさせたい、と思い始めました。が、残念ながらその小学校には障害児学級はありませんでした。そこで、障害児学級を開設して頂くため、長男の担任に相談し、その後先生には学校とのパイプ役になっていただきました。これは大変心強かったです。そんな時、つくしんぼの存在を知り、早速入会させていただきました。障害児学級作りを進める中で、つくしんぼの方々には一緒に校長先生や教育委員会にお願いに行ってもらったりして、多岐にわたり協力していただきました。

 そんな中、障害児学級を開設してほしいと言う、親の思いを伝える手段の一つとして、署名運動を開始しました。つくしんぼのメンバーをはじめとして、地域の方々の支援をいただき、また教育委員会の温かい対応により、平成8年度に念願の障害児学級を開設していただきました。6年間、原学級と障害児学級を行き来する中で地域の子どもたちとのかかわり、親同士のつながりが少しずつ確実にできていき、地域に根ざした生活が送れるようになったと実感しております。

 中学校への進学は、小学校で地域に基盤が出来ましたので、出来れば次男の持つ力を伸ばせる場がいいのではないかとの思いから、養護学校の中学部を選択しました。

 現在1年生に在学中で、6月にありました運動会の徒走では、生まれて初めて1位になったり、作業学習では鉢カバー作りを体験したりして、とても充実した毎日を送っています。

後に、親として次男の障害が分かった時には将来の不安に押しつぶされそうになりましたが、その次男のおかげで次々とうれしい出会いがあり、つながりが出来ました。いろいろな人がいて、様々な考え方があり、そしてそれぞれに良さがあって「違うことを認め合う」大切さを知りました。

 

139号 2002年10月27日

(8)手記A 〜特殊学級作りへの歩み〜 永田洋子

 今回は、中学校の障害児学級作りに取り組んだ会員の手記を掲載いたします。

 

 当時、息子(自閉症児)が入学予定である中学校は、知的障害児学級だけの学級でしたので入学を機に、情緒障害児学級を新設していただくために、親として動いたことを少しお話したいと思います。

 小・中学校長をはじめ、「つくしんぼ」坂田会長、その他いろいろな方々に教育委員会へ働きかけていただき、私たち親も教育長や健へお願いに行きましたが、残念ながら作れませんでした。

 しかし、やるだけのことはやりましたので後悔はありません。

 後日情報で、熊本市内の方に健が力を入れていた年で、郡部にはとても難しい時期であったとのことでした。

 私たちがなぜ知的のクラスがあるのに、もうひとつを望んだのかというと、単純に考えて贅沢と思われる方もおられるかと思いますが「知的と情緒」まったく違う障害で、指導の仕方もそれぞれに違うためです。

 現在、なかよし学級、自閉症児2名で、情緒障害児学級になっております。

 息子は、入学時より原学級となかよし学級に席があり、本人に無理な教科は個別で、そのほかの教科は原学級にて勉強しております。

 健常児の中で、多くの刺激を身に付けて、とてもすばらしい成長をしていますし、なかよし学級では、日常生活、ルールそして言葉理解、計算力などをしっかり身に付けております。

  地域の中で、しっかり一人の人間として、頑張って育っています。

143号 2002年11月24日

(9)手記B 〜「歩いて帰ろう」を口ずさみながら〜 平江美保子

 今回は、小学校から養護学校を選択した会員の手記を掲載いたします。

 

 我が家の次女が昨年10月社会人となってから早いものでもう1年が経つ。当初、複雑な思いで今の所に通所させ始めたのであった。養護学校高等部の卒業を待たずに進路先にやったことや(空きが出たので)、本当に本人に会った進路先だったのだろうか等と、しばらくは親子で落ち着かず悶々とした日々が続いた。しかし、持ち前の人懐っこさを発揮し、1ヶ月も経たないうちに職員、利用者の方たちと打ち解けて毎日楽しげな彼女の笑顔を見ていると、そんな心配は無用だった。我が子が何らかの障害を持つ親は、誰しも将来を思い悩み、時には挫折もし、大きな試練が何回もくるであろう。しかし本人の気持ちを重要視してあげることが一番だと思う。つまり本人にとって居心地がいい所、毎日楽しく充実した日々を過ごせること、そんな環境を提供することが親として最大限努力すべきではないかと思う。

 娘が就学を迎えようとする少し前ころから、地域の中で障害児を育んでいこうとする風潮が出始めたが、迷うことなく、小中高一貫した教育のある養護学校を選択した。障害に応じては地域の学校に通うことも本人や先生、子どもたちを含め地域ぐるみでお互いに大切な心が養われることも大きいと思う。振り返ってみると、12年間養護学校で培われたものが、今の彼女の土台になって大きく成長してくれている思うし、親も満足している。

 これから咲きも大きな試練が幾度となくあるであろう。しかし親子で共に楽しい生活が送れるよう、無理せず、肩を張らないで、ゆっくり歩いていこうと思う。毎日、終わりの会で歌う「歩いて帰ろう」のように・・。

 そして彼女にも、これからもっと皆に可愛がられる障害者であってほしいと願う。

147号 2002年12月22日

(10)障害児者と5日制

 11月まで3回にわたって3人の会員から自分の子どもに対する障害児学級、養護学校を選択された経験手記を書いてもらいましたが、それぞれの家庭の考え方、子どもへの接し方、学校への考え方、色々の考え方があることが少し明らかになり、子どもの発達の状態、身体の状態によって選択肢がたくさんあることも明らかになったと思います。

 そういう中で心配することはないのでしょうか。昨年までの隔週土曜日休みが、今年度より毎週土曜休みになり、周5日制が完全実施されるようになったことです。休日をいかに過ごすのか、健常児にとっても悩みの種ではないでしょうか。

 塾通い、習い事が増えた。もしくは漠然と過ごす日が多くなったと感じている子どもたちも・・・。障害のある子どもの休日の過ごし方はより深刻です。留守番はおろか、一人で家においておくこと事態が困難な子どもが多くいるのです。訓練は当然必要です。平日の学童保育をやっている所は増えてきていると思われますが、障害のある子どもの受け入れは厳しいものがあります。土曜保育はなおさら少なくなります。

 運営も大変で、親の負担が増えていて、行政からの援助の方法も課題です。余暇の過ごし方は障害児者にとっても健常児にとっても、家族、地域にとっても考えなければならない問題だと思われます。

 地域全体が「協同・共同・連携すること」を目指していけたらいいなと思います。そのためには障害児者にとってのライフ・ステージつまりそれぞれの生活の地域での福祉、医療、学校の連携を豊かにすることを目指す。それとともに、乳幼児から生涯にわたり一貫してサポートする「地域障害者支援センター」的な役割の機能を持つものが必要になってくると考えられます。

151号 2003年1月26日

(11)障害者列車ひまわり号@

 「列車に乗って旅をしたい」と、一人の障害者の願いから始まった障害者列車ひまわり号。熊本では熊本〜阿蘇いこいの村が第1回目でした。それは1984年のことです。

 それから数えて今年は19回目、19年目になるのです。

 一人で旅行する。健常者にとってはなんでもないことですが、障害者にとっては大変なことです。会談やちょっとした段差、ホームと列車の隙間など、ひとつ間違えば命を落とすことにもなりかねません。そんな障害者とボランティアが力をあわせ日帰り旅行を楽しむ。それがひまわり号です。私も2回目から実行委員会に参加し、つくしんぼ発足後は会からも多数参加しています。

 ひまわり号にはさまざまな障害児者が参加します。車椅子の人、盲導犬と一緒でないと参加できない人、白い杖をついている人、耳が聞こえにくい人、脳卒中の後遺症のある人、知的障害者の人、精神障害者の人など障害の種別を問わずに参加があります。ボランティアの体制も個別に十分考慮されています。家族の参加があっても車椅子の人には2名、他の障害児者には1名のボランティアが確保されます。また別に、汽車やバスの乗り降りなどで個別ボランティアだけでは大変な場面では、介助ボランティアが応援をしてくれる体制もあります。

 ボランティアに興味があるけれども実際に経験をしたことがない人には、当日までに数回のボランティア講習会があります。ひまわり号に参加することで新たな出会いがあり感動があります。障害児者同士のふれあい。19回目ともなると、ひまわり号ってなんだろうと言いながら走った1回目の参加者の人も青年になり、小学1年生のときから参加した人たちも社会人になりました。肩車されてスナップ写真に写る私の娘直美も4歳だったのが今はもう23歳になりました。懐かしく思います。

  今回は2月2日(日)≪走れ!ひまわり号 愛と希望をのせて・一足先の春を見に行きませんか?≫天草松島へ初めてのバスの旅です。つくしんぼからも多数参加します。100万本の菜の花を見て、遊覧船で五橋のクルージングを楽しみたいと思います。

155号 2003年2月23日

(12)障害者列車ひまわり号A

 2月2日、障害者列車ひまわり号発車当日。天気も予想に反して旅行には絶好の小春日和となりました。熊本駅には障害児者やボランティアの参加者が続々集まってきます。バス5台に分乗し、1台のバスに車椅子2〜5台。また、車椅子専用のバスのU2号にも乗って、一路目的地松島を目指して出発です。

 一面に咲く菜の花、はるがそこまで来ていました。菜の花畑ではグループごとに思い思いの姿でスナップをとっている姿。黄色い絨毯の中で「わぁキレイ」わぁ、こんなに咲いている菜の花を見るのは初めて」という声の連発。また、軽度の認知障害者が車椅子を押している姿などを見て、私たちも目頭が熱くなりました。ひまわり号ならではの光景ではないでしょうか。

 静かな天草海の水面、点々と浮かぶ島々、親しげに寄ってくるカモメたち、デッキからえさのパンくずを投げると空中キャッチ。カモメウオッチングです。そこには障害児者の人たちの普段にない喜びと驚きの声や笑い声で一杯です。車椅子の人たちを遊覧船に乗せるのに、船の乗り降りが狭いので、ボランティアの人たちが抱きかかえたり、前後2人に抱えられながら乗り込むときの船が揺れるんじゃないかと一寸心配そうだった顔はそこには見受けられませんでした。

 アロマの施設内では、町長のあいさつや婦人会の踊り、小学生によるカタ切り踊りなどの郷土芸能での歓迎、町社会福祉協議会の歓迎など。これらの催しは1回目から今まで行った先々、阿蘇、水俣、人吉、城北、大牟田、福岡などで快く引き受けてもらい、それぞれの特色が生かされてきました。

 阿蘇に行ったときは障害者同士で結婚式を挙げたカップルもあり、強く印象に残っています。今回は全盲の飯島輔訓のバイオリンミニコンサートがあり、参加者に感動と励ましの力を与えてくれました。

  帰りのバスの中では、うたごえサークルの指導の下に歌声やゲームを楽しみ、感想の発表会など、バスごとの楽しい企画が一杯でした。次回のひまわり号にも、つくしんぼも是非たくさん参加したいとの思いの元それぞれの岐路につきました。

159号 2003年3月23日

(13)障害者列車ひまわり号B

 私たちの障害者列車ひまわり号は障害児者、家族、ボランティアが手を取り合って日帰りの旅行を楽しむばかりではありません。また、私たちに感動と励ましを与えてくれるだけでもありません。私たちは同時に誰もが住みやすい街づくり運動の一環として、街の点検活動などの取り組みも行っています。

 「探検!熊本駅」と称して、JR熊本駅の点検活動をJR職員の方々と行い、改善、要望事項などを伝えてきました。このような地道な取り組みが、JR熊本駅での車椅子配置、階段昇降機、車椅子エレベーターの設置などの成果に結びついています。また、熊本市内の公共施設の点検で段差の解消、点字ブロックの設置などにも結びついています。そしてこの間のひまわり号の取り組みが熊本県からも認められ、障害者の「列車に乗って旅行がしたい」という願いを実現し、障害者の外出、旅行できるまちづくりを目指して、障害者、家族、ボランティアが力を合わせて障害者列車ひまわり号を走らせている。参加者には、必ずボランティアとしての技術、心構え、優しいまちづくりについての講習を行い、公共交通機関の点検、調査活動などを行うなど、独創性にあふれた活動であるということで「第1回やさしいまちづくり賞」を受賞することができました。

 ひまわり号の取り組みは、熊本だけのものではありません。昨年は、全国の色々な街でそれぞれの特徴を生かしたひまわり号が70本以上走りました。また、全国の取り組みを学びあい交流する「全国交流集会」も年1回開催され、1993年には阿蘇を開場に全国から300名を越えるひまわり号の仲間が参加しました。

 来年も再来年もひまわり号は愛と希望を乗せて走り続けるでしょう。しかし、私たちは世の中にひまわり号が走らずに済む日を目指して走らせます。

 ひまわり号は戦争のない平和な世の中を願って走り続けるでしょう。

 私たち「つくしんぼ」も実行委員会に参加し、精一杯の応援を続けます。
 

164号 2003年4月27日

(14)障害と平和@

 “戦争と平和”現在行われているイラク戦争。その悲惨な光景は写真や映像で毎日繰り返し見ることが出来る。砲弾が飛び交う映像。一般市民は巻き添えにしないと言いながら、傷を負った子どもたちの姿。包帯を巻いた痛々しい姿。何と悲惨な姿でしょうか。イラクの結果がどんな結果に終わろうとも、非人道的であることは、国連憲章や国際法上からも許されるべきことではありません。

 私は昭和18年生まれですので第二次世界大戦の終戦のときは2歳を過ぎたばかりで記憶にはありませんが、お年寄りから聞いたりたくさんの本が知ることは出来ました。

 しかし、そういう戦争の中で心身障害児者の人たちはどうであったのかを知る手がかりは非常に少ないのです。ましてや心身障害児者に対する政策はどうであったのでしょうか。戦争を推し進めることを第一とする軍国主義の立場からすれば、心身障害児者は邪魔であり、切り捨てられるべきものとみなされていたと思われます。

 あの「アンネの日記」野時代はどうだったのでしょうか。私は幸いにもナチスドイツ時代の政策の一端を知る機会を得ることが出来ました。障害児者たちが強制的に不妊手術を施されたり、安楽死という名の下に毒ガス室へ送られたということも知りました。その政策の一部を資料として載せさせていただきます。

 

ドイツ国民を遺伝性疾患から予防する法  1933年7月14日

1.遺伝性疾患を患うものは不妊にすることが出来る
2.この法律に言う遺伝性疾患とは次に掲げる疾患を患う患者である

@遺伝性精神薄弱者     A精神分裂病

B周期的精神病者       C遺伝性癇癪

D遺伝性舞踏病         E遺伝性盲

F遺伝性聾唖          G遺伝性強度肢体欠陥

3.これに加えて、強度のアルコール中毒者も不妊にすることが出来る

※訳語はその当時の訳のままです


167号 2003年5月25日

(15)障害と平和A

 第二次世界大戦のナチスドイツの政策の下、ガス室へ送られた人たちの中にはユダヤ人だけでなく心身障害児者たちがたくさん含まれていたという記録もあります。ナチの管理室で何万何千というファイルが整然と積み重ねられ、ファイル1枚1枚にガス室に消された人々の運命が記録されていたそうです。鉄格子と扉に「働けば自由になる」というスローガン。行き先はガス室だった線路。

 日本ではどうだったのでしょうか。障害者の被害は空襲による負傷は死亡だけではなかったそうです。戦争の長期化とともに食料不足が深刻になり、飢えをしのぐ力の無い者たちがたくさん犠牲になり、戦争に役立たないとみなされた障害者を“ごくつぶし”と罵ったり、ただでさえ体の弱い障害者の人たちが飢え衰えて死んだことでしょうか。

 また、病状の重い人は医療から見放され座敷牢に閉じ込められ、食料不足による栄養失調も加わり、戦争末期には入院患者の半数が死亡した病院もあったという記録もあります。

 戦地で病気や闘いの中で戦死した人たちに思いを馳せるとともに国内で空襲に次ぐ空襲の中で、または疎開先で、自分の体ひとつが思い通りにならなかった人たち、自分の意思表示も出来なかった障害児者たちの人々のどれくらいが、逃げ切れずに無くなったことだろうか。上や寒さで亡くなった障害児者たちがどれくらいいたのだろうか。

 この時代は軍備にお金をつぎ込み、障害者はなおざりにされた。国が貧乏で障害児者に手厚く出来なかったというのではありません。人間を差別することが戦争につながっていくのではないでしょうか。平和こそが私たちの理性と良識の証明であり、基本的人権の保障ではないでしょうか。

 私の好きな言葉の一つに、宮沢賢治の言葉があります。

「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」

171号 2003年6月22日

(16)父の日のプレゼント

 6月15日は父の日。今年もすばらしいプレゼントをもらいました。今年7月で24歳になる娘、直美(ダウン症)とつれあいからです。どの家庭にもある光景かもしれません。また、親ばかだといわれるかもしれませんが・・・。とにかく嬉しかったのです。

 

お父さんへ

 定年おめでとうございます。こしのいたみだいじょうぶですか。菊陽学園で毎日仕事をしています。お父さんは毎日さんぽをしたりおでかけをしたりラジオたいそうなどをしてますね。今年で60才になって元気モリモリですね。つくしんぼの会長になっていろんな行事いっぱいありますね。これからも体に気をつけて病気やこしなどけがをしないように気をつけてください。

父の日おめでとう  坂田直美より

 今までも母の日や父の日、誕生日(私とつれあい)等には必ず一筆添えて祝ってくれました。今年の父の日は無事に60才の定年退職の喜びも加わり、最高のプレゼントだったと思います。今後も家族全員が、健康で明るく暮らして生きたいと思います。


176号 2003年7月27日

(17)障害者と仕事@

 現在の世の中、かつてないほどの不況の進行のもとで、雇用・失業問題はいっそう深刻化しています。企業倒産による解雇はもとより、大手企業を先頭に賃金カット、ボーナスカット、人員整理と解雇が増大し、健康と生活不安に拍車をかけています。常用労働者の失業率のアップの一方でパート、派遣労働者、フリーターの増大等々。

 このような状況の下で、とりわけ社会的に不利益な条件(障害というハンディキャップ)をもつ障害者にとっての事態はより深刻になっています。障害者の雇用問題は、その政策の立ち遅れの上に、今日の不況の進行と長期化のもとで、とくに厳しく、多くの障害者は解雇を余儀なくされ仕事を奪われています。また、全国的に障害者の雇用率を比較しても九州、九州の中でも飛びぬけて高いのが熊本という状況が新聞紙上で報道されていました。

 障害者の生活の基盤が大きく揺らいでいるのです。障害が重いと言われる人はなおさらです。どんなに重い障害をもっている人でも、その人に可能な労働が保障されることにより、人間としての限りない発達に結びつくものです。そのような労働こそ本来の労働であると言えるのじゃないかと思います。また、少しずつは改善しているとは思いますが、現実にはそのような労働が保障されたとしても、経済的に地域で自立した生活を可能にする賃金が得られるとは限らないのです。

 今年度から措置制度から支援費制度へ移行されました。多くの問題を残しながらの移行です。そして施設生活から地域生活へと政策は進められていますが、障害者の生活の基盤は実に不安定な実態にあると思われます。でも実際はそういう中で働いている障害者もたくさんいます。生真面目で明るく働く障害者。施設(入所・通所)で、福祉工場で、または、一般企業の中で負けずに仕事をしている人たちが「つくしんぼ」の会員の中にもいます。大変嬉しいことだと思います。次回からはそういう仲間と家族を含めた人たちの手記や記録を掲載させていただきたいと思います。

179号 2003年8月24日

(18)障害者と仕事A 〜福祉工場で働く〜 白石ひろ子

 今月から障害者の仲間や家族の手記を掲載させていただきます。

 

  自閉症の息子は今年24歳、サンシャインワークスという福祉工場に就労しています。自閉症は脳の器質的障害と考えられるようになり、言語や情報処理の分野に障害があります。相手が何を言っているのか、どうすれば良いのかわからないのです。療育の中で適切な指導や援助である程度の会話や生活能力を獲得していきます。新たな体験には指導や援助が必要ですので一生涯援助が必要です。親亡き後の支援体制が望まれます。

 熊本県下には、知的障害を対象とした福祉工場は6施設あります。全国に比べ多い方ですが、すでに満杯状態で就職も厳しく、その運営も独立採算性の為、不況も加算し益々苦しいものになっています。サンシャインワークスは生協の折り込み広告を担当させてもらっています。全国でも数少ない、最低賃金を確保できている工場です。生協の協力や理解のお陰と思っています。福祉工場には指導員の方がおられ、作業や生活面での指導をしていただいています。

 福祉向上の理念や指導員の方の資質が子どもたちに大きく影響しています。細かい配慮や指導をしていただき、息子も作業中は真剣に生き生きと仕事をしています。サンシャインワークスに就職できて本当に良かったと思います。後に続く子どもたちにこういった就労場所をもっと作って欲しいと思います。

息子が今、とても楽しんでいることがあります。近所の方たちに誘われてのミニバレーです。土曜日の夜の2時間、メンバーの方たちとのふれあいが楽しくうれしそうに帰ってきます。多くの方たちに支えられ生きています。感謝の気持ちでいっぱいです。そんな彼も、誰から言われた訳でもなく、時々、近所の道路の空き缶等のゴミ拾いをしています。

真面目で優しい彼に手を合わせ神様から授かった宝ものと思っています。

花植えて 降り出せし雨 濡れる背に 傘さしかけたるは障害の吾子

窓開けて「空気のみなさんおはよう」と 吾子の声にきらめく朝

 


184号 2003年9月28日

(19)障害者と仕事B 〜保育園に就職〜 村山陽子

 今回は民間の保育園で働いている障害者の親の記録です。多くの地域で障害を持つ保育士の採用が検討されるよう、私たちの会も願っています。

 

 昭和57年3月ダウン症と心臓病を合併しこの世に生を受け、10歳くらいまでと短命を告げられた娘も今年21才になりました。

 北海道で生まれ満1歳で東京、10歳で京都へと引越し、総合保育、交流教育などを取り入れ義務教育を終了する年、転勤族の娘の高校をどうしたらよいものか悩みました。そして、父の故郷である熊本で受験、平成9年4月熊大附属養護に進学しました。

 学校では施設就労か福祉工場就職を目標に実習し、ハローワークの訓練なども挑戦しました。しかし、時節柄、福祉就労の門は狭く、なかなか希望する施設には空きがない状況でした。不安の中、3年の夏休みになり、進路の先生、担任の大変な努力により保育園就労の話が持ち上がり、職安、学校そして、各保育園との話し合いが進み実習など通して平成12年3月ようやく採用の内定があり、私たち親子は不安で一杯でしたが、頑張るっきゃない!と挑戦する心意気で、さつきが丘保育園(熊本市)の採用の通知を手にしました。

 この年3名が熊本では初めての取り組みとして保育士補助または用務員として就労する運びとなりました。これは各園に厚生労働省の助成制度、処遇特別加算で措置されます。事業主の園にとっても高齢者や障害者の働きやすい条件整備の一環となっているものです。

 娘は3年間、0歳児クラスを担任しました。オムツ換え、食事介助、泣いている子をあやしたり、先輩保育士さんの丁寧な指導のもと、一つ一つ技術を身に付け、自信につなげているようです。

今年は4年目になり、1歳児クラス担当で、保育内容の変化、子どもさんへの応対に苦慮しながらも、就職と同時に菊陽町に引越し、ずーっと長く、さつきが丘保育園で働きたい!と毎日笑顔で出勤していきます。お給料も最低賃金は確保されており、昇給もあり大喜びです。健康保険、厚生年金も加入し、立派な社会人です。家族に時々レストランで食事をご馳走してくれたり、嬉しい限りです。

 その後毎年、何名か保育園就労者がいて仲間が増えています。対人就労の困難な面もあると思いますが、園児さん、保護者、職員そして、地域の方々、皆さんの理解と協力のもと、全国各地で生き生きと働く仲間が、もっともっと増えていって欲しいと願っています。
 最後になりましたが、地域のみなさまいつもありがとうございます。そして、今後ともよろしくお願いします。

 

188号 2003年10月26日

(20)障害者と仕事C 〜自立を目標に〜 西田美和子

 四人兄妹の二番目に誕生した幸恵は、ごくごく普通の女の子。ちょっと難点をいえば、車酔いと人見知りが激しいことくらい。それが読み書き計算が要求される年齢になると少しずつ違いが見えてきました。数と物が結びつかず、文字に意味があると認識できないのか、一字一字、ひと呼吸入れて読むといった具合です。学習面ではさっぱりでしたが、先生や友人の協力で中学校までは普通学級で過ごしました。

 高校への進学を考える時になって初めて療育手帳を取得。大津養護学校へ進みました。学校では、社会への自立を目標に教育が進められ、先生の指示のもと学園バスから市営バスへ、そしてJRでの通学をマスターしていきました。

 三年生の夏休み1ヵ月間は、ハローワークでの訓練を受け、会社での一連の基本作業や忍耐力を身につけました。三回の現場実習でパン屋さん、幼稚園、折り込みチラシ作業所と体験しましたが、進路決定には至りませんでした。先生や職安の骨折りで現在の会社、田崎鶏卵への実習が計画され、年末にようやく進路が決定したのでした。

 朝は五時半すぎに起き、電車を乗り継いで緑川駅まで片道一時間半かけて通勤し、土曜祝日も休みなしの勤務です。仕事は選別された卵を指示の量ごとに計ってネットに入れたり、バーコードをはったりの作業です。納入が間に合わず昼食が1時2時になることもあるようですが、パートのおばさんからジュースを頂いたり、「さっちゃんがいないと困るよ」等の声かけで、一年半が経ちました。

 就職する少し前から我が家の一員になった犬のリリーも大きな役割をはたしてくれます。まだ眠気が残る朝、疲れて帰宅した夕方、リリーとの会話で癒されているようです。また、犬の散歩をするようになって地域の人たちとの関わりも持てるようになりました。優しく接してくださる方々に感謝でいっぱいです。

 娘の将来を考えると、このまま励まし励まし仕事を続けさせた方がいいのか、それとももう少し楽な生き方があるのではないか、これから寒い季節を迎えるに当たり、その自問自答はしばらく続きそうです。


193号 2003年11月30日

(21)障害者と仕事D 〜今、思うこと〜 古庄陽子

今回は、授産施設(通所)で働いている息子さんの事について、お母さんの重いなどを書いていただきました。

 
  我が家の一人息子は27歳。知的障害で自閉的傾向もあります。4歳まで全く歩くことが出来ず、今でも階段やちょっとした段差にもかなり抵抗があり、動きに関して大変用心深く慎重者です。 誕生から歩き始めるまでの4年間が大変長く辛い日々で、いつも人目を気にしながらあちこちの医療機関めぐりをしました。
 保育園、特殊学級、養護学校と節目節目で悩みながらもいろんな人との出会いや励ましに助けられ、無事学校生活を卒業しました。さあ、これからがまた大変だと思っていましたら、ラッキーなことに学校の実習を通して本人が希望する施設に入所することが出来、どんなに嬉しかったことでしょう。
 ここは通所の授産施設ですが、仕事ばかりでなく1年の間には楽しい行事や旅行、地域の催し物やイベントへの参加、そして何よりありがたいことは、毎朝近くの公園への散歩とグランドゴルフ、毎月の健康調査(検尿、体重、血圧測定)などと大変行き届いた指導を受けながら幸せに通所しております。早いものでやがて10年になろうとしていますが、それとともに親も確実に年をとってきており、やはり今後のことが一番気になります。
 本年度から支援費制度が始まり、福祉サービスも施設中心から、居宅、地域中心にとなってきています。地域の中で安心して暮らせるようになるためにはどんな援助や支援サービスがあるのでしょう。そして、それをどのくらい利用出来るようになるのでしょう。いつでも(24時間)気軽に利用できる体制が早く出来るよう私たちも働きかけなどしながら見つめていきたいものです。
 西合志には高齢者、障害者施設、地域福祉在宅介護、保健の5つの機能を1ヵ所に集中させた総合福祉センターがオープン。山鹿には通所、宿泊、居宅、ホームヘルプのサービスを一体的に提供する小規模機能ホームがオープン。そして、今度は牛深の方に・・・と、地域での生活、地域に根差す活動が広がりつつあります。そのうち私たちが住んでいる菊陽にも、と心から願っております。


197号 2003年12月28日

(22)障害者と仕事E 〜障害者の自立を支える支援システムの確立〜 坂田昌子

 今回も、親の思い、特に今年4月から始まった支援日についてのくったくの無いところを書いていただきました。

 

 昌美28歳、誕生から28年の歳月が流れたことになる。私は今夏、母を亡くした。体が徐々に衰え、痩せ細る姿をみるのは本当に辛く悲しかった。死は等しく誰にでも必ずやってくる。分かってはいても肉親の死はやはりきついものがある。私自身も心身に変調をきたし不調が続いている。更年期か、老いの入り口にさしかかったか、それでも年齢にあらがい、老いに抵抗しようともがいている自分がいる。今までも、そしてこれからも娘の将来のことが常に私の心から離れることはない。
 いつだったか国際障害者年があり、ノーマライゼーションが声高に叫ばれた。あれから10年以上が経ったのではないだろうか、しかし何がどれだけノーマライゼーションの理念に近づいただろうか?私の周りを見回してみても何ひとつ障害者をとりまく環境は変わってないように思う。
  この4月から支援費制度がスタートした。これまでの入所施設から地域社会へと国の方針も移行しつつある。それならもっときめの細かいサービスや障害の程度や能力の応じた支援システムを確立することが必要不可欠と思う。支援費制度は市町村が窓口であるからサービスの内容は市町村の裁量で決まる。
 私はホームヘルプを町に申請した。月に2時間という。なぜならお母さんが元気だからだということなのだが、親が子どもを見るのは当然という考え方が根底にあるような気がしてならない。親は老いてもなお生涯子どもを見続けなくてはならないのだろうか?普通であれば20歳も過ぎれば子は独立し親から離れていく。障害があったとしても社会に支援のシステムがあれば一人の人として生きていくことは可能になる。町村合併になれば町の組織も運営も大きく変わることだろう。


200号 2004年1月4日

(23)働くことを支える@

 前回まで数回にわたり障害者の仕事、就労とついての親の思いを書いてもらいました。福祉就労、一般就労の立場の違いこそあれ、精一杯仕事をしている障害者の人たちの姿が目に浮かびます。もちろん、就労を希望している親はまだまだいます。
 働こうにもいろんな条件が邪魔をします。今から生まれてくる子どもも、学校に行っている子どもたちもいずれ就労という壁に突き当たりますし、そこを通る時ずいぶん悩まされることだと思います。
 障害者の法定雇用率(1.8%)の達成が義務付けられている従業員56人以上の県内企業は772社。そのうち未達成企業は48.6%に上るそうです。雇用の中でとりわけ立ち遅れているのは重度の知的障害者の就労と社会自立の問題です。その多くの人たちが養護学校を卒業しても就職できる先がない、実習先さえない人もいます。
 また、就職があっても長続きしない。完全参加と平等はどこへ。そして家庭崩壊に至るということは、福祉に欠ける典型ではないでしょうか。開ける道はないのでしょうか。地域で就労し、生活することに、特に知的障害を持つ人には苦手とすることがいろいろあります。
 日常生活や職業生活などを一人できりもりすることはなかなか難しく、時と場合によって何らかの手助け、他からの援助が不可欠なのです。就業生活を含んで生活全般がうまくいっている人、家族の場合には、これまでも、今も家庭や事業所の方、そして学校の先生、あるいは施設の指導員、あるいは医療関係の方たちが陰になり日向になり、援助し続けているのが通常です。この人たちが生きていく上で不可欠な援助「支え」が社会的に、公的にそして法律的にも必要なことだと思います。
 援助「支え」こそが障害を持つ人たちの「完全参加と平等」を果たすためには大切なことの一つではないでしょうか。少しの援助「支え」でよい人がいるでしょうか。どんな場面、どんな時に「支え」を必要とするのかを考えてみたいと思います。それを考えていくことが、本人の自立生活へもつながっていくものと思います。


204号 2004年2月22日

(24)働くことを支えるA

 障害のある人たちへの具体的な援助「支え」がどんな場面で必要なのか、いくつか考えてみたいと思います。

@仕事や作業の内容、機械や道具が変わるとき
 今まで慣れてきた仕事、作業のやり方や順序、作業を進めるときの“かん”や要領や慣れ、それに加えて身体や心のリズムまで、すべてが変わってしまうことになり、すべてが新しくなってしまうように感じられることでしょう。新しい仕事、作業のやり方や機械、道具の使い方等を学び、扱えるようにならなければなりません。
習熟し、仕事になるまでの間、どんなにか大変な思いをすることでしょう。また、指導をし、支える人、援助をされる人も大変でしょう。できるようになるまでに援助「支え」を何回も何回も、繰り返す必要があります。

Aパートナーが変わるとき
 職場の中で「支え」の中心になり、直接面倒を見てくれる人、指導をしてくれる人がパートナーといわれる人ではないでしょうか。パートナーはいろいろな援助「支え」の中でも重要な存在です。一緒に働き、仕事をリードしてくれて、職場の中での内容を具体的に少しづつ、時間をかけて教えてくれたり、何くれと面倒を見てくれる人だと思います。そして、その人たちは職場の中のいろいろな人たちとのパイプ役になったり、また家庭との大切なパイプ役も果たしてくれます。
その援助「支え」をしてくれるパートナーがいなくなるのは大変なことです。代わって面倒をみてくれる人はどんな人か、どんな教え方をしてくれるのか等の不安で一杯だと思います。今までのパートナー、その人がいなくなったために、同僚たちに迷惑をかけたり、落ち着きがなくなったり、家庭で暴力を振るったり、出社拒否をしたり、辞めたくなったりもします。
 このような不安が解消されるまでは時間もかかり、こんな時期こそ外からの援助「支え」が必要でしょう。


209号 2004年3月28日

(25)働くことを支えるB

 知的障害の場合、職場を変わること自体、自分ひとりだけではなかなかできません。それを手伝ってくれる援助者の手を必要とするのです。どういう仕事が良いのか、また、職場を探すのにどういう具合に探したらいいのか、一時的な雇用なのか、長期的に雇ってもらえるのか、給料や休日などの条件はどうなっているのか、もちろん本人の意思や希望を基本にしなければならないと思いますが、それを叶えるにも「支え」援助が必要なのです。
 職場が変わることによって、通勤の方法や道のりも変わります。新しい職場までの道のりを覚えるだけでも大変です。どの道を通り、どのバスや列車や電車に、どこまで乗り、どこで乗換えをし、どこで降りたらよいのか。場合によっては切符の買い方、定期券の買い方も新しく覚えなければなりません。学校が変わった時もそうだったと思いますが、援助者の手を借りても何日も何日もかかったことを思い出してください。
 通勤の環境や方法が変わると、通勤途中で思わぬ事故が起きたり、トラブルに巻き込まれたりすることもあります。熊本でも問題が起こり、親の思いも一緒に新聞で報道されたことを覚えていらっしゃる方もおられることと思います。そのようなトラブルをあらかじめ防ぐためにも周りの人たちの思いやりや指導や訓練にも、そして実際にトラブルがあった時の処理にも「支え」援助が必要なのです。
 もちろん、勤め先で出会う人たちも新しくなります。また、職場の雰囲気も全くと言っていいほど違ったものになるでしょう。その上に、前号に書きました@の「仕事や作業の内容、機械や器具が変わるとき」Aの「パートナーが変わるとき」も加わってきます。
それら全部に対応しなければならないのですから、障害者本人にとっては大変なことなのです。これらのことは、知的障害を持つ人にとっては、他の人たちには想像もできないくらいほど大変なことでしょう。やはりここにも「支え」援助が必要となるのです。


213号 2004年4月25日

(26)働くことを支えるC

◇景気や経済、社会が変わる
 景気が良い時期には、職場が広がったり、雇用の場が多くなったりすることはあっても、採用を控えたり、解雇などの問題はあまり起きたりはしません。しかし一旦景気が悪くなってきますと、一般の人にも、そして障害者は真っ先に大きな波をかぶり、職場を失ったり職場を変わらなくてはならなくなったりします。なかには障害者の、かげひなたのない働きぶりに感心し、まじめさに心打たれて他の人たちより長く働く場を提供された企業主もいらっしゃいます。この地域にもそういう企業もありましたが、今はもうその企業はありません。残念なことです。
 障害者の場合、上手に波をかいくぐれませんし、障害者の立場そのものが、非常に波を受けやすい立場にあります。やはりここにも「支え」援助が必要になります。

◇自分が変わる
 子どもだった自分が大人になる。親も含めて周囲の人たちはいつまでも子ども扱いしがちですが、障害者も成長にしたがって大人になり、男であり、女であります。そして私たちと何の変わりもなく、異性を恋しくなり、近づきたくなります。そして身体も動いてしまいます。私たちの周りには結婚したいと望んでいる人たちもいます。実際に結婚をし、幸せな生活を送っている人たちの話も耳にします。しかし、周りの人たちの無理解も多くあります。また、誘惑の方も遠慮なく近づいてきます。そして職業生活を揺さぶるようなトラブルや出来事に逢うこともあります。
 そして、年齢を重ねることによって仕事を変えたり、職場を去らなければならないこともあります。
 子どもから大人になり、そして老人になる。それは如何ともし難いことです。誰もが通る道筋ですが、障害者にとってはより「支え」援助が必要な時ですし、「支え」援助がより一層必要になります。


216号 2004年5月23日

(27)働くことを支えるD

◇家族が変わる
 なかでも大変なことは、両親の“老い”や“病気”という変化です。なかでも母親が年を取ってエネルギーや余裕がなくかってくる時期に、仲間たち(働く障害者)はまだ職業人としてバリバリ働ける年齢にあるのです。毎日食事やこまごまとした身の回りの世話をやってくれたり、病気の時には面倒をみてくれて、遊びや旅行にも一緒に行ってくれたり、そして良き話し相手になったり、グチを聞いてくれたりした親に頼れなくなってしまいます。こんな時期にも「支え」援助が必要となります。
 知的な障害をもった人たち(発達に障害のある人たち)は、「働くことを支える@〜D」のように「変化への対応」や「生活管理」を苦手としています。
 障害を持っていない人の場合には、これらの変化が起こっても、いろんな場面でも、うまく適当に対応でき、職業生活にまで影響させることはほんのわずかしかないと思われます。要所要所での他からの「支え」援助は、濃淡、強弱はあっても、不可欠であり、しかも短期的・単発的なものでなくて、ライフサイクルのパターンで考えなければならない問題であります。
 つまり、障害者たち、仲間たちの職業自立は「支え」援助を保障することを条件にはじめて成立するものだと思います。

障害者、仲間たちに対する「支え」援助をいろいろな面からみてきましたが、次のようなことになると思います。

T 日常生活の支え

U 職場生活の中の支え

V 地域社会の支え

W 医療の支え

 社会参加を目指す障害者は今後ますます増えてきますし、重度・重複障害者も社会参加を目指しています。国の政策も地域社会での生活を奨めてきていますし、一定の医療管理を受けながら一般企業で働く人たちは、今後ますます増えることだと思われます。そういう人たちは「病人」ではなく、一人の人生を生きる「人間」です。治療しながら働くことができるし、治療と就労とは並行できると思います。


221号 2004年6月27日

(28)地域で暮らす@

 前回までは知的障害のある子どもが生まれてから就労に至る過程で起こる諸問題や、それを解決する方法などについて考えてきましたが、今回からその人たち、家族の人たちが自分の住んでいる地域での生活、施設入所者の人たちが地域で暮らすことがどういうことなのか。そのために、国の政策、県の政策の方向、そしてその中での家族の思いや悩みについて考えて見たいと思います。

2002年11月23日の朝日新聞によると、宮城県福祉事業団では大きな知的障害者入所施設を解体するとしています。今年になってからも浅野宮城県知事も同じように施設解体に地域での生活支援を拡充すると発表がありました。1973年に設立された船形コロニーは定員500名で知的障害者更生施設4、授産施設1、このほか地域福祉サービスセンター、自立支援センターなどを擁し、ポニー牧場では知的障害者の乗馬療法なども実施しているそうです。優れた取り組みをしているところですが、入所者約500名を10年間かけてすべてグループホームなどの地域生活に、移行させるとのことです。
 また、2002年12月14日付毎日新聞にも、次のような記事が掲載されました。
 知的障害者の入所施設「船形コロニー」を運営する宮城県福祉事業団は15日、施設解体を表明したことについて、入所者の家族らに説明会を開いた。出席した家族ら約380人に理事長は「入所施設は医療面やサポート環境などで優れているが、本人の満足度は地域生活のほうが高い」と指摘。2010年を目標に解体し、重度障害者のグループホーム整備、介護保険の対象を障害者に広げるなどを全国に説明し「来年度から支援費制度(障害者が福祉サービスを業者と契約して支援を受ける制度)が始まり(すでに2003年4月から支援費制度は始まっています)施設に入ってそのまま一生を過ごす、という時代は終わる」と強調した
 家族からは「いいことだと思うが、今まで施設に頼ってきているので不安だ」「いつ実現できるか分からない目標で、入所希望の子どもが入れなくなる」「受け皿となるグループホームが少ないのに大丈夫か」「地域生活になじめない人もいる。そういう人のために施設を続けて欲しい」と言う不安の声を訴える人が続出と報道しています。


225号 2004年7月25日

(29)地域で暮らすA

 前回は宮城県の「船形コロニー」の状況と考え方を新聞紙上を元に記しました。長野県でも知的障害者総合援護施設「西駒郷」(駒ヶ根市、定員500名)の施設解体が進められています。2003年度県当初予算で「長野モデル創造枠予算」として50億円を福祉・医療・環境・教育分野に重点配分し、西駒郷の知的障害者の入所更生・授産施設を県として必要な機能に制限し、入所者の半数を地域に返す構想で動き出し知的障害者の地域生活移行の「成功例を示していく」ことにしているそうです。
 2003年2月14日付の信濃毎日新聞では次のように報じられています。 県は、地域での障害者支援体制を軌道に乗せる「出発の年」と位置付け、障害者向け住宅福祉に前年度比28.6%増の12億4300万円を盛った。ただ「施設で安心のサービスを受けることが障害者の幸せ」という考え方も根強い。地域で暮らせる環境整備を総合的に進めていけるか、重い課題だ。
 施設入所の知的障害者は2400人。西駒郷が500人を占める。いきなり施設を出るのは難しいので、徐々に訓練する。施設に籍を置いたまま、民家などで自活訓練を行う費用に1900万円、西駒郷以外の施設が自活訓練を行う際の家賃補助などに3480万円を盛った。重度心身障害者向けのグループホームの助成制度を創設(2300万円)。身体・知的障害者を一時預かるタイムケア事業の対象の1つに有償の移送サービスを加える。NPO(民間非営利団体)の福祉車輌購入への補助などを含めた移送支援は計1500万円。「相談支援体制を地域ごとにいかに整えるかが課題」との指摘もある。個々の要望を把握してサービスを調整する人材の育成や、ネットワークづくりをどう進めるか。
 このように長野県が本格的予算を投入する姿勢は、他の地域の施設解体「脱施設」の進行の状況とは少し様相を異にしています。 私たちも注目しておく必要があります。


229号 2004年8月29日

(30)地域で暮らすB

 全国には大きなコロニーなどいくつもあります。大きな施設もたくさんあります。しかし、入所している障害者の一生を考えることで、「脱施設」「地域で暮らす」ことの流れがあることは事実です。また、その考え方について大きな不安を抱いている親や家庭がたくさんいることも事実です。そういう中で、「伊達は障害者に理解のある恵まれた町ですね」という感想を一様に聞くことができる北海道伊達市(人口3万5千人余)の知的障害者施設の北海道立「太陽の園」、伊達市立「旭寮」を中心にした「地域生活援助」のシステムがあります。3万5千人余の人口の地方都市で300名に近い知的障害者の人たちが、町の中の生活寮、グループホーム、アパート、借家で生活しているそうです。

 「生活形態別の戸数と入居者数」の一覧表を見てください。
 グループホームの入居者の次に民間のアパートや借家で生活している人達の人数の多さに驚かされます。とは言うものの、私たちの娘直美はそういう生活が実際にできるのだろうか。暮らせるためにはどうしたらいいのだろうか、親の悩みや思いは尽きませんが、どんなフォローがあればいいのか考えていかなくてはなりません。


233号 2004年9月26日

(31)地域で暮らすC

 今回は長崎県にある「コロニー雲仙」の人たちの地域で働くことを中心に、障害者の人たちの就労、雇用の形態をみてみたいと思います。今までは「コロニー雲仙」から何らかの支援を受けて、地域で働きながら暮らしている人たちは「コロニー雲仙」のある瑞穂町・島原半島(県南地区)が中心でしたが、現在は長崎市・諫早市・大村市周辺(県央地区)へ、そして佐世保地区(県南地区)というように長崎県各地に広がっているそうです。
 地域で働く人たちの分布地域と「働く形態」別の人数一覧表を見てください。

 

◆地域で働く人たちの分布状況

 

 地域で働く人たちは、働くための支援はもちろんですが、同時に地域で暮していくための支援を受けながら、それぞれの地域で暮らし続けているのです。この働く形態も最初から整然と準備されていたわけでなく、これまでの20数年間の試行錯誤を経て「形」になってきたそうです。親の不安も当然ありましたが「脱施設」ということが早くから取り組まれてきていたことだと思われます。


237号 2004年10月24日

(32)地域で暮らすD

 知的障害を持つ人たちが施設から出て、まちの中(地域)で暮らしていくためにはどんな要素、条件が必要なのでしょうか。

@住む場所の保障
 何よりもまず「住居」が必要でしょう。それも画一的でなく、一人一人のニーズに合わせて、様々なタイプの住居が数多く用意されなければなりません。グループホームや民間の借家、公立の住宅など。グループホームにはバックアップをする施設が必要です。
 公営の住宅でも試行的に実施されている住宅もあります。近くには県営住宅で試行されていますが、入居前に防災上の改装、改善が必要だったとの話を聞きます。グループホームの世話人やグループホームの利用者を含めて、違ったグループホームの交流も必要でしょう。
 先月、宇城・上益城地区の5町10ホームが集い、北九州市へ日帰りで訪れたことを熊本日日新聞の紙上で知り、嬉しく思いましたし、他の地域へも拡がることを期待します。

A就労の場の保障
 生活の場、住居の保障がされたとしても、日中仕事に行くところがなく家に閉じこもっていては、せっかく地域で暮らしていてもしっかりした生活を送っているとは言えないでしょう。一般企業での仕事が可能な人には「就労の場」が、一般就労が困難な人には「福祉的就労の場」や「デイサービス」などが必要でしょう。
 「今日○○さんが出勤していません。どうなっているのでしょうか?」「一緒に仕事をしている人から嫌がらせや悪口を言われるので、もう仕事をやめたい」というような仕事に関する相談やトラブルもあるかもしれません。そういう時のために、就労に関する専門家として「就労支援ワーカー」と呼ばれるような人の配置も必要になってくることでしょう。

 次回には「所得の保障」や楽しく暮らすことを支える「余暇活動」をどうするのかなども考えてみたいと思います。


242号 2004年11月28日

(33)地域で暮らすE

 前回(10月24日号)に続いて、知的障害をもつ人たちが地域で暮らしていくためにはどんな要素、条件が必要なのかについて考えてみたいと思います。

B所得の保障
 障害を持つ人たちの所得のベースとなるのはやはり「障害基礎年金」です。年金月額は概算6万5千円〜8万円位となっています。軽度であればあるほど、社会にはとけ込みやすいのですが、年金は逆に低くなり、受け取れない人たちもいます。
  また、一般企業への就労が困難な人たちもいますし、作業所からや施設から受け取る工賃も1日500円に満たない人たちもいます。でもこれらの人たちにとっては働いて得た賃金が生活費の全てであり、就労を継続することと安定した年金を受け取られることが地域生活の大前提となっています。

C楽しく暮らすための余暇活動の保障
 地域で暮らすからには、地域で質の良い生活でなくては社会に出た意味がありません。ただ働いて、食べて、寝るというだけではなく、生活をエンジョイするための余暇活動や地域の仲間たちとの楽しい交流があって、初めて豊かな暮らしといえるのではないでしょうか。
  社会のルールがきちんと守れない暮らしが続けられなくなってしまった、生活の乱れが原因して体を壊して暮らしや仕事が出来なくなってしまった例もあります。仕事を失った原因が仕事以外のところにあった、というような意外な結果を生むこともあります。

 その原因をもっと掘り下げてみると「自由な時間をうまく使えない」「町の中で孤立してしまう」ということもあるようです。もともと、余暇を有意義に過ごしたり、仲間や地域とうまく交わったりするのが苦手な人たちが多いのです。近所の人とどう接していいのか分からない、休みの日に何をしたら良いのか分からない、その結果周りから誤解を受けるようなこともあるかと思われます。
 町の中の暮らしを見ていると、趣味や楽しみを持っている人とそうでない人では、暮らしの安定度がかなり違うのは、健常者といわれる人たちも同じではないでしょうか。人間が暮らしていく上で「楽しみを持つ」とか「遊ぶ」ということは「生活」や「働く」と同じくらい、もしかしたら、それ以上に大事なことではないかという気がしてなりません。


250号 2005年1月30日

(34)地域で暮らすF

 前回までに知的発達障害を持つ人たちが地域で暮らしていくための要素、条件として、@住む場所の確保、A就労の場の保障、B所得の保障、C楽しく暮らすための余暇活動の保障などについて考えてきましたが、今回も引き続き考えてみたいと思います。

D適切な援助の仕組みの保障
 知的発達障害を持つ人たちが地域の中で安心し、安定した暮らしをしていくためには「援助の仕組み」が必要だと思います。行政、学校、施設、医療機関、事業所、地域の社会福祉協議会、当事者の会や親の会を含む家族会などがバラバラでなく、お互いに協力、連携して取り組んでいく必要があります。
 各分野が密接に連携し合って「地域生活推進連絡協議会」や「市(町)障害者団体連絡会議」「地域心身障害者職親会」などが組織結成され、一人も網の目からこぼれることのないように、切れ目のない地域福祉のネットワークづくりに取り組んでいる地域もあります。色々な障害があっても「地域で自立した生活」が送れるように、一般の人たちが営んでいる「あたりまえの生活」が送られるようにと、地域生活援助システムの構築に努められている地域もあります。
 地域で生きるということは「ごく普通の市民、町民として、ごく普通の生活をしていく」ということではないでしょうか。ですから特別な生活のやり方でなく、できるかぎり「ごく普通の生活、地域の人たちが生活をしている生活システム」で良いのではないでしょうか。

 障害をもつ人も障害をもたない人も同じ地域で隣り合って生きていくためには、隣近所の人、職場の仲間友達、店員さん、習い事のお師匠さん、地域の高齢者の人たち、地域の子どもたちなど、地域の全ての人たちが、障害をもつ人たちを正しく理解し「ともに生きる」ために工夫しあうことが大切であり、必要だと思います。そうすることにおいて、地域の人たちとのきめ細かい「地域援助システム」などがつくり上げられ、また、行政とのかかわりにもつながり「地域福祉ネットワーク」構築にもつながるものだと思います。
 今月10日に行われたスペシャルオリンピックス菊陽地区500万人トーチランには障害者をはじめ、550名余の人たちがボランティアで参加していただきました。これも地域生活の一つであり、大きな前進だと思います。本当にありがとうございました。詳しいことはまたの機会に譲りたいと思います。


254号 2005年2月27日

(35)親として@

 前回までは知的障害を持つ人たちが、地域で暮らしていくための要素や条件について考えてみました。でも国や県がすすめている「脱施設」というのが地域で安心して暮らしたいという障害者や障害者の家族の願いに本当に応えているのでしょうか。
 「共生社会実現に向け、基本計画に『脱施設化』明示」(2003年1月4日 読売新聞)これは、国の障害者基本計画(2002年12月発表、2003年から2012年まで)を報道した読売新聞の見出しです。この突然の報道に障害者関係者の戸惑いが表明されました。
  入所施設にはたくさんの入所待機者がいます。そして支援費制度が実施され、障害者家族の申請に直接たずさわった市町村窓口担当者も、71%の人が「入所施設が不足している」と回答しています。(日本障害者センター「支援費制度施行状況に関する市町村調査報告書」2003年9月)
 熊本県内の知的障害者福祉の状況はどうなっているのでしょうか。
(1)知的障害者グループホームの状況
※整備プラン目標 平成22年度まで
※H16年度までの達成率 54.9%(県)
(2)居宅支援事業などの指定状況
   (県所轄知的障害関係施設)