ペリリュー観音像と私  佐藤 操

 

 ワンネスの2001年3月から12月の全10回と、2003年8月と9月に掲載された佐藤操さんの戦争体験記「ペリリュー観音像と私」をまとめました。

熊日菊陽販売センター
ワンネス編集室

 


60号 2001年3月25日

(1)ペリリュー観音像と私

第2次世界大戦の激戦地“ペリリュー島”より生還された佐藤操さんの戦争体験記を連載します。

一、軍旗ヲ完全ニ処置シ奉レリ。

二、機秘密書類ハ異状ナク処理セヨ。

「サクラ サクラ」

 昭和19年11月24日午後5時、パラオ本島の師団司令部に発信されたペリリュー島守備隊長中川州男大佐(のち中将に昇進)以下1万余命の玉砕を報ずる最後の打電であった。
 関東軍の中でも精鋭と名声高き水戸歩兵第2連隊を主力に、1万余命の将兵を率い勇戦された守備隊長は、この日を最後に自決されたと聞いております。

 私は、ペリリュー島守備隊の工兵中隊250名中の一兵として参戦し「九死に一生」を得て昭和22年1月3日復員、祖国の土を踏み現在に至っております。これも若くして散華した幾多英霊の加護の賜物と感謝の祈りを捧げておる次第です。

 31年間過ごした東京より妻の故郷この地に移住、念願であった観音像を慰霊碑として建立「ペリリュー観音」と命名し、開眼の式を修しました。碑文字は中隊長 高久近信氏、賛文は戦友の天笠光久・藤井祐一郎の両氏が、石工は共に生還した分隊長 横尾弘太郎氏と、ペリリュー島パラオ島の生存者の方々のご協力を仰ぎました。

 ここに賛文を記し英霊の鎮魂の祈りとす。

 「祖国日本の繁栄と大東亜の共栄を信じ航空機も重火器の支援もなく唯、肉弾を銃に託して若くして南海の孤島ペリリューに散華した戦友等の霊を慰めるためにここに観音像を祀る。己に仏心兄姉に宿るというべし。しかるに尚、日夜参って観音の慈悲を乞い二度と悲惨な戦争を繰り返さざるよう長く後世に伝えんと願う。佐藤家の悲願に打たれ賛と記して行為を称う」

生かされて 活きて傘寿の 年迎ふ


64号 2001年4月22日

(2)運命の9月15日

 私がペリリュー島に参戦したのは、昭和19年4月29日、昔の天長節の佳日でありました。海から見る島は高さ80メートル程の中央高地をかかえ、南北に細長い蟹の鋏に似た形をしている。パラオ群島のまろやかな他の島と異なりゴツゴツとした不気味な感じの島である。だが生い茂る緑のジャングル、珊瑚礁の海に囲まれた平和な楽園の島であった。水戸に因み、高所を水府山と名付け、ここに複郭陣地を築きその南にある大山に連隊本部があった。作成命令で観測山上に赤龍、青龍の信号が打ちあげられた場合「工兵指揮班と第4小隊は連隊本部へ集結せよ」であった。

 

 9月15日未明、ついにその運命の日がやってきたのである。米太平洋艦隊の主力が友軍の数倍の兵力をもって上陸作戦を開始。空爆、艦砲射撃、機銃掃射と猛烈な攻撃、これを迎え討つ友軍の重砲火、それは筆舌に尽きない凄惨なものでした。観測山上の赤龍、青龍の信号により砲煙弾雨の中を連隊本部へ直行。対戦車濠の掘削にかかり任務遂行後、工兵山を“死守せよ”の下命により激しい攻撃を掻い潜り、うす暗がりの迫る頃工兵山に辿り着いたのでありました。

 

 これから玉砕まで長い死闘が続くのである。

敵上陸のオレンジビーチでは、まだまだ激戦が繰り返されていた。


69号 2001年5月27日

(3)水・水・水

 空爆と艦砲射撃により島は一変した。山肌は焼け焦げ、樹木は倒れ見る影もない焦土と化したのである。上陸した当時は日に何度かあったスコールも全く降らなくなり、飲料水にも事欠くようになったのである。貯えておいた水も底を尽き誰も彼も「水、水、水」と叫ぶようになったのである。私もその中の一人であったことは言うまでもない。

 

 昼を欺くように打ちあげられる照明弾の間隙を縫って出撃、敵陣近く潜入、食べ残しの缶詰食や水タンクを見つけた時は、地獄で仏以上の喜びであった。敵と銃火を交わすこともなかったが、間断なく打ちあげられる照明弾は不気味であった。

この夜の戦果は缶詰食と水タンク1個であったが敵軍の様子を探る事も出来た。缶詰食と水を洞窟陣地に持ち帰り、分かち飲み分かち食べ飢えを凌いだのであった。勇敢な横尾分隊長を先頭に12名は最後まで頑張り戦うことを誓い合ったものでした。

 食料も水も無い毎日の戦いに向かって次の日も次の日も山肌を伝い、谷間を潜り、或いは匍匐前進と敵陣近く侵攻し対戦車地雷の埋設に成功し、帰り際に食料と水を発見、持ち帰りルーズベルト給食などと言いながら飢えに耐えたものでした。

 

 大山陣地より工兵山転戦中に、機銃掃射により右大腿部を負傷した長崎県出身の前田利一一等兵の最期が思い出されます。三角巾による仮包帯だけの傷口に湧き動く蛆との闘いに苦しみ耐える姿は計り知れないものがありました。「前田頑張れ」と声をかけると「水、水、水」と叫ぶ嗄れ声に私は胸うたれました。「よしっ」と励まし残り少ない水筒の水を渡すと“ニッコリ”笑みを浮かべ私の手を取り「桜井上等兵殿(旧姓・桜井)お世話になりました、必ず私が守ります」と言い残して昇天した最期を生涯私は忘れられないでしょう。

 庭先の観音像に水を捧げることを日課としている私です。


73号 2001年6月24日

(4)三途の川

 「三途の川と渡し舟」ということを聞いたことはあったが・・・。

 私はその三途の川をペリリュー島の激戦野中で現実のものとして見、またその川を渡り損ねた体験を多くの人に語りかける思いで、この原稿にペンを取っておるところです。

 

 あの日は、私が監視哨の任務に就いた日であった。米軍の艦砲射撃によって静けさを破られ戦意昂るときであった。山腹に命中した砲弾により崩れ落ちてきた岩が私の肩を直撃し、監視所より転落したことを今もはっきり覚えている。

どのくらい時間が経過したのだろうか?目の前に玉砂利を敷きつめた河原と、一筋の川の流れ、一艘の小舟、対岸には白い花が咲きつめたお花畑が広がり、その上に私の父と母の胸から上の姿が浮かび「おいで、おいで」と呼んでいるのです。渡し守のばあちゃんに頼んで渡してもらおうとしたが「渡し賃三銭払い」と言われたが戦場にいる身で持ち合わせがなかった。父母から貰って払うから渡してくれとお願いしたが「規則だから」と頑として聞いてくれないのである。この時の渡し守のばあちゃんが、私の家の近所に住むばあちゃんであったのも不思議なことであった。

 

 部隊は山の方に向かって進軍して行く、後を追わねばならない、父母にも逢いたいと焦りもがいているうちに倒壊した家屋の大きな梁の下敷きになっている様相に一変していたのでありました。天井から落ち、顔に当たる水滴を飲もうとするのだが思うように身動きもできず苦しんでいる時、群馬県出身の関口一等兵に揺り起こされ「桜井上等兵殿、桜井上等兵殿」と連呼され我に返り蘇生したのであります。渡せ渡せぬで喧嘩したばあちゃん、関口一等兵といい、危機一髪のところを護ってくれた大恩人であります。「ありがとう」 「ありがとう」。

 

 昭和22年1月3日復員した時母の第一声が「操、肩から上を怪我していないか」であった。血を流しながら部隊の後を追っている姿を夢に見たという母であった。子を思う親心、遠く離れていても相通じるものがあるのでしょう。親心に感謝する次第です。もっと語りたいこともありますが、紙面の都合により擱筆致します。


77号 2001年7月22日

(5)戦車攻撃決死行

  米軍上陸を知らせる赤龍、青龍の信号が大山頂上から打ちあげられてからどのくらい日数がたったのだろうか・・・。

 日米両軍の流したおびただしい血で海水までオレンジ色に変えた生き地獄と死闘の繰り返されたオレンジビーチから戦局は内陸部に移りつつあったのである。

 

 敵の上陸前「過早に我が戦力を損耗させないこと。敵の配備薄弱に乗じ一挙覆滅し、上陸した敵をことごとく撃退せよ」との中川守備隊長の作戦命令により勇戦奮闘した友軍も次第に苦境に追い込まれたのであった。

 天山洞窟に指揮所を置き、ペリリュー飛行場を死守した富田大隊も玉砕したのだろうか?銃声も静まり不気味な沈黙の日が続いたのである。

 この天山と工兵山の谷間に巨大な鉄の塊のような敵の戦車が進行して来た。戦車攻撃は工兵隊の任務。中隊指揮班より栗原三郎小隊長に攻撃命令が下命され、第4分隊長横尾弘太郎伍長(後にペリリュー観音像を刻んでくれた人)に伝達。一瞬緊迫した空気が流れた。

 「生きて再び還れない決死行」人選に悩まれたことだろうと今、心に思うのである。

 「横尾分隊長自らと私桜井上等兵」と報告されたのである。

 

 爆薬を背に戦車に向かって体当たりする行動は、死は当然のことである。「爆薬三勇士」の成功は鉄条網の爆破であった。日頃教えられた工兵の本領を発揮し「本家久留米工兵に恥じないように」と決意を固め「水杯」で戦友と別れ、洞窟陣地を出撃。

 敵戦車10メートル手前に接近した時「桜井とまれ」の命令。「俺が先に行く。俺が駄目な時、後に続け」であった。死を前にして尚部下の安全を願う分隊長横尾伍長の心根の深さに感動したのであります。

 幸い攻撃は大成功で、この時も私は命拾いしたのでありました。あの時の分隊長の一言が私の人生観を一変させてくれたのでした。「犠牲的精神を発揮し、全軍戦勝の道を展くに在り」が工兵訓であったことを思い出します。

 その横尾分隊長も一昨年(1999年)、天界に召され庭先に祀る「ペリリュー観音像」が遺作となりました。

 日夜参って、亡き戦友の慰霊と観音像を守り続けることを念願に生きるべく心掛けている私であります。


81号 2001年8月26日

(6)観音像の縁で知り合った人々 其の一

 昭和58年11月27日、念願であったペリリュー観音像建立入魂の儀を修した時、当時津留区の区長さんであった阪本幸男氏のお力添えで守備隊長中川州男大佐(のち中将昇進)の未亡人みつえ様の所在を知り得たことであります。

 入魂の儀にも快く列席頂き元中隊長高久近信氏、戦友藤井祐一郎氏、観音像を彫刻建立してくださった分隊長横尾弘太郎氏親子と他関係者共々ペリリュー島戦の思い出など語り合ったものでした。

 

 昭和58年11月28日、熊日新聞掲載の入魂の儀の記事を見たとのことで津奈木町から真野勇氏がお参りにおいでくださいました。「私は船舶工兵の一員としてパラオ地区の戦闘に参戦し海上警備、海上輸送の任に当たりペリリュー島にも縁がある」とのことであった。当時のことなど話しているうちに私達を輸送してくださったのも真野さんたちの任務によるものと知りました。その真野さんも天界に召されたとのこと、ご冥福を祈ります。

 また、空挺隊の一員としてペリリュー島に駐屯していたという元菊陽町議会議長酒井一義氏が戦友会の方々を案内され、お参りくださいました。お話によれば私達がペリリュー島上陸6ヶ月程前に転戦されたとのことで「佐藤さんたちは私達の身代わりになられたのですね」と言われたことを今もはっきり覚えております。

 

 都城市の中村次郎氏、奈良県の東丈夫氏、佐賀県の中野博之氏より折に触れ「ペリリュー観音像を守ってください」と励ましのお手紙をいただいております。このお三方も戦友の慰霊と百観世音参りと奉仕されているとのことです。ますますのご自愛を祈りあげるとともに、私も一日でも長く生き、観音像を守り平和の尊さを永く後世に伝えんと、念願している次第です。


85号 2001年9月23日

(7)観音像の縁で知り合った人々 其の二

 平成11年11月21日の産経新聞掲載の「紙上追体験あの戦争153回」の記事を読まれた、宮城県仙台市在住の能勢雅司氏を知るようになった経緯を申し上げることにして、この稿を起しました。

 ペリリュー島で生死を共に戦い奇跡的に生還した私の戦友藤井祐一郎氏が、産経新聞の記者の方と語り合った体験記なのであります。

 この記事に感動された能勢雅司氏が、栃木県粟野町在住の藤井氏と面談され、その会話の中からペリリュー観音像のことを知られたとのことでありました。

 

 能勢氏は日本会議百人委員会の委員として、また日本総合コンサルタント株式会社グループ会長として活躍されておられる方であります。

 なお、お話によれば南太平洋の激戦地に私財を投じて、慰霊と遺骨収集に参られたとのことであります。またその折、全身全霊を英霊に護られているような感じを体験したとのことであります。

 平成12年5月17日グループ傘下の代表者4名の方を使者として、ペリリュー観音像へみごとな献花と回向料として金一封をいただき、英霊共々心よりお礼申し上げる次第でございます。これも観音像の縁による引き合わせでしょうか。「只々感謝あるのみでございます」。

 献花の掲額と真心を大切に保存し、永く後世に伝えんと願っております。

 

 その後能勢氏より、米軍撮影のペリリュー島激戦の様子及び能勢氏撮影の遺骨収集の様子のビデオテープをいただき、涙して拝見いたしました。累々として折り重なる屍、焼け焦げた岩肌、私達工兵小隊が築き上げた観測山上の監視塔の残骸などなど。また遺骨収集の方々と会話する島民の姿など、遠くペリリュー島を思い出します。島いっぱいに戻った緑と平和に感銘深く致しました。

 島に暮らす人々の幸福と永遠の平和を祈りつつ、この稿を終わります。


90号 2001年10月28日

(8)観音像の縁で知り合った人々 其の三

 いつの日だったろうか。覚えていないが突然、八代市在住の森口様とういう方の訪問を受けました。「ペリリュー観音像にお参りさせてください」とのことで、お話によればお兄さんがペリリュー島で戦死されたとのこと。お兄さんの消息の真実を少しでも知りたいと、復員局地方世話科或いは靖国神社などを尋ね合わせ、私共の「サクラ会」の存在を知り、ペリリュー観音像に辿り着いたとのことでありました。

 

 私の戦友藤井小隊長の部下として、オレンジビーチの戦闘で戦死されたことなど、私の知る限りのことなどお話し申し上げました。それ以来、毎年2回はご子息の運転で、ご主人共々お参りにおいで下さっております。英霊共々感謝申し上げておる次第でございます。

 尚、森口様は栃木県粟野町に藤井氏を訪問。当時の事を詳細に伺って来たとのことで何よりと思いました。共にペリリュー島に参戦した森口上等兵の勇姿を思い出します。これも観音像の引き合わせでしょうか。

 

 去る2月末に栃木県から渡辺茂様という方が、ペリリュー観音像にお参りにおいで下さいました。お話によれば戦友藤井氏とは同じ町内に住み親交があり、意気相通じ特別の間柄とのことで、私のことなど話題となりペリリュー観音像建立の経緯など聞き知っていたとのことでありました。渡辺氏は今回戦友慰霊のため、ご遺族の方を訪問。墓参りのため九州・四国路から広島、島根、鳥取地方を巡回されるとのことで、その途中ペリリュー観音像参拝に立ち寄られ、お互いの戦闘体験談に一刻を過ごしました。渡辺氏の尊い真心と体験談など、永く後世に伝えて欲しいものと希う次第でございます。ますますご自愛の上、永く永く生きてくださいと英霊共々重ねて祈り申し上げる次第です。

 折々のお花を供花して下さる近隣の方々、誠に誠にありがとうございます。

合掌 
津留の草庵にて


94号 2001年11月25日

(9)観音像の縁で知り合った人々 其の四

 観音像の縁により知り合った人々として、去る11月11日「日本会議」福岡大会に出席させて頂いた時のことを申し上げることと致します。

 先にこの欄で申し上げました仙台市在住の日本会議百人委員として、また日本総合コンサルタント株式会社グループ会長の能勢雅司氏のご紹介によりこの大会に出席させて頂いたのであります。

 日本会議百人委員の谷本勉氏の迎えの車に私と老妻、元昭和天皇側衛官として永年奉職された菊池市出身の中川節夫氏と同道し、大会会場のホテルニューオータニ博多に到着。開場前にも関わらず人、人、人で大変な盛り上がりでした。聞く所によると参加者800名余りとのことで、大盛会で主催者側のご苦労のほど拝察致し心より感謝の意を表する次第です。誠に誠にご苦労様でした。

 

 老妻は800人もの国を想う大勢の方々の前で、身をもって体験したことを語った。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の様子・・・。鮮やかな日の丸をつけた日本空軍機の攻撃を見た日系二世の娘さんが、裏オワフの東本願寺の早朝礼拝より帰り来るなり「フミちゃん、フミちゃん(妹の名前)」「ライジングサンがアタックに来たのよ」「ライジングサンがアタックに来たのよ」と二度三度と大声で知らせてくれた言葉は、今も忘れられないと・・・。

 「日の丸」をつけた空軍機を見た日系二世の娘さんが表現した「ライジングサン」とは、なんと素晴らしい言葉でしょう。

 

 昭和21年1月、米本土より移送されてきた日本の兵隊さんたちに、敵地で命をかけて作った日の丸の小旗を振って、激励した思い出など涙と共に、その日の丸の小旗を振りつつ大勢の方々に語りかけ、感動を呼び起こしたようでした。

 私はペリリュー島の激戦の中で体験したことのいくつかを語り、大勢の方々と知り合うことになりました。これも観音像の導きによるものと合掌鎮魂の祈りを捧げるものです。今大会に出席させて頂きましたことを関係各位に「ありがとう」を申し上げ擱筆致します。


98号 2001年12月23日

(10)奇跡的生還

 戦局も次第に終焉に近づきつつあった。

 敵の作戦も洞窟陣地掃討戦に入り、ガソリンを注入火炎放射器、爆薬投入とそれは熾烈なものでした。このような火炎攻撃が繰り返される毎日で、今日は、明日はこの洞窟がと迫って来たのでありました。

 

 あの日は12月24日。中川守備隊長自決の日から1ヶ月、クリスマスイブの日でした。敵は戦勝を祝ってか、照明を、音楽を高々と鳴らし、唄や踊りに興じているのです。それが憎たらしくなり、ここで焼死するよりは、我が工兵隊の生き残りで切り込みを決行しようと相談がまとまった。

 集合時間に先任小隊長の行動が遅れ、無駄な時間を費やし、藤井小隊長以下50余名が行動を開始した時には、すでに敵の包囲網の中にあり、銃撃戦となり、銃弾も撃ち尽くし、銃剣のみとなり次第に海辺の方へ追い詰められ、暗がりの海中に転落したのでありました。

 その時すでに海中に人影が見えたので、近寄ってみると藤井少尉、斉藤軍曹、塚本上等兵の3名で、そこへ私も加わり4名となり勇気百倍。まだ時折り北地区にあがる砲声に、藤井少尉の指揮により合流すべく海中歩行を始めたのでありますが、夜明けと共に満潮となり、浮遊するのが精いっぱいで、辺りを見れば数十隻の敵上陸用舟艇に包囲されていたのです。

 

 「もはやこれまで」と自決を覚悟の4名が岩陰に寄り付き、斉藤軍曹が持っていた1個の手榴弾にすべてを託したのですが、幸か不幸か爆発せず失神状態に陥り、気がついてみれば敵舟艇の上に真っ裸で横たわっていたのです。充分に射殺できる至近距離にいた私共をなぜ射殺しなかったのだろうか。人命を尊重する国民性だろうか。この立場を逆に考えてみた時、どうであったろうか・・・。人命の尊さ、生きることの尊さを痛感する所です。

 物は一日でもできるが、人命は成長するのに幾年かかるだろうか。先陣訓に「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ、死は鴻毛より軽く九牛の一毛よりも軽し」とあるが、私は最後まで戦った自負もあり、捕虜となったことを恥と思っていない。生きて帰った以上、実際の真実を話さなければ真の姿は伝わらないと思っている次第です。

 

 本年4月故人となった藤井少尉もそう語っていたのであります。改めて藤井少尉に敬意を表します。

 私と戦車攻撃決死行を共にした横尾分隊長も同じ運命を辿り生還した一人です。その分隊長親子が刻んでくれたペリリュー観音像を永く守り続けると共に、人命の尊さ、生きる尊さを後世に伝えることを心の糧に生き続けることを申し上げ、この稿を終わりと致します。

 

 長らくのご愛読を津留の草庵より御礼申し上げる次第です。
ありがとうございました。   英霊と共に合掌

 

戦争(いくさ)終ふパラオは遠し初御空   佐藤 操


180号 2003年8月31日

(11)老下級兵の独り言@

 私は大東亜戦開戦の日より1ヶ月余り過ぎた昭和17年1月10日水戸工兵連隊の初年兵として入隊、現役部隊の駐屯する満州チチハルに移動、現地に到着したのは4月29日天長節といふ佳き日であったことを覚えております。営庭に設けられたテーブルに赤飯が用意されて私共新兵を迎えてくれたのです。私は一中隊配属を命ぜられました。

 

一、軍人ハ忠義ヲ盡スヲ本分トスベシ

一、軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ

一、軍人ハ武勇ヲ尚ブベシ

一、軍人ハ信義ヲ重ンズベシ

一、軍人ハ質素ヲ旨トスベシ

 

 忠・礼・武・信・質、この五ヶ条を胸に刻み軍務に精励北満警備の任に当たったのです。次第に戦局も変動し、我が部隊にも臨戦態勢の命が下り戦時編成となったのであります。そして渡されたのが認識票で、小判型をした真鍮製のもので中央に番号が刻まれておりました。この時誰彼となく靖国神社行きの手形・靖国神社行きの切符などと叫びながら若き命を銃剣に託し勇躍征途についたのです。

 

 大連旅順と南下し敵潜水艦・魚雷攻撃をかわしパラオ本島に上陸、息つく間もなく関東軍でも精鋭と言われた水戸歩兵二連隊長中川州男大佐の指揮下に入りペリリュー島に転戦したのであります。昭和19年4月29日この日も天長節の佳き日であったと記憶しております。

“カニのハサミ”に似たような形をした小さな島でゴツゴツとした溶岩のような珊瑚礁の連なる遠浅の海で日米両軍の兵士が流した血潮でオレンジ色に変へオレンジビーチと呼ばれるようになろうとは誰一人予想もしませんでした。

 グアム島・サイパン島の戦況から見て三日で陥落させると豪語した敵指令官をして、ペリリュー島は地獄の島と言わしめたのです。

(次号へつづく)


181号 2003年9月7日

(12)老下級兵の独り言A

 

一、軍旗ヲ完全ニ処置シ奉レリ。

二、機秘密書類ハ異状ナク処理セヨ。

「サクラ サクラ」

 

 を師団司令部に打電、ペリリュー島玉砕を報じ割腹自決。守備隊長中川州男大佐(のち中将昇進)は武人の最後を飾られたとのこと、私共があとで知ったことです。私共工兵小隊は、工兵山を死守せよの命によりこのあと1ヶ月近く夜襲・奇襲との交戦を続けたのです。

 1日戦いば1日、3日戦いば3日祖国の防壁となるを信じ、然し衆寡敵せずで藤井祐一郎小隊長以下生存者50余名、敵陣に最後の斬り込みを敢攻したのでした。藤井小隊長以下5名、九死に一生を得て今に至っておりますが只今では生存者は私1人となりました。

 認識票を渡されたとき、死んだら骨を頼むぞと、靖国神社でまた逢おうと約束した戦友に約束も果たせず苛責の念にかられる私です。

 政治家の先生方、靖国に代わるものをとか靖国神社参拝がどうかなどと申さずに、靖国神社を守り参拝してください。祖国の防壁となって散華した英霊への何よりの供養でしょう。

 私は今、庭先に観音像を建立。ペリリュー観音と命名、日に日に鎮魂の祈りを捧げております。この観音像の縁で知り合うようになった、仙台市在住の日本総合コンサルタント株式会社グループ会長、野勢雅司氏はパラオ島・ペリリュー島の遺骨収拾にご盡力下さいました方で英霊共々御礼感謝申し上げる次第です。誠に誠にありがとうございました。

老下級兵の独り言として記す
平成15年2月22日82歳の誕生日に 熊本の草庵にて  佐藤 操

 

戦争終うパラオは遠し初御空  靖国に拝む背に散るサクラかな